実際に経験しないと扱えないのであれば、法律家は極めて限定されるでしょう。借金まみれで、離婚して、殺人しちゃった方限定、みたいな?
逆に、何かを経験したからといって、あたかもそれが普遍的な経験のように思ったり、語ったりするのも危険ですよね、「自分の経験」でしかないわけですから。
結婚したり、子供を育てたりしてわかるのは、自分の結婚と子育てだけ。「結婚というものは・・・」とか「教育というのは・・」って語るのはおこがましいというか、統計的な真実ではありません。
それでも、裁判では、最終的には裁判官は判断をしなければなりません。裁判官によって、随分、事実の認定の仕方は異なるなあ、と思うことはあります。例えば、不貞の認定とか。このメールとこの写真で、こっちの裁判官はこう認定するのか、あっちの裁判官はこうか、という感じです。
JPストライカーの『弁護の技術』という古典において「裁判官も、他の人々と同じく、その環境、教育、遺伝的な偏好などの所産である。彼らは彼らなりに、希望と恐怖、熱望と野心、短所と長所、そして(彼等がいくら逆らおうとしても)、世論の衝撃に対する感じ易さといったものを持っている。」と指摘していますが、その通りです。裁判官が普遍的で間違いのない事実認定が出来るとは限りません。
それを理解した上で、事実を突き付け、偏見を突破し、真実に近づけるのが、弁護士の法廷での作業でしょう。
