(前回「海馬の働きと”確かさ”」はこちら)

 

ふだんの何気ない行動も

失敗なくおこなうためには、

たくさんの過去の経験を想起して

行わなければいけません。

それがうまく想起できない状態が

認知症の姿だと思います。

そして、その何気ない行動を

次から次へとこなすことで

私たちの生活が成立している、と

いうことを自覚せねばなりません。

 

逆な言い方をすれば、私たちが生活を

成り立たせるためには、次から次へと

やってくる状況を、次から次に認知して

しかるべき行動に移さなければいけない

ということになります。

 

うまくできないことを「認知の失敗」

と呼びましょうか。それが病的な状態を

「認知障害=認知症」と呼ぶのでしょう。

 

介護現場でも、症状が重くなったという意味を込めて

「認知が進んだ」という言い方をする人がいますが

私に言わせれば「認知が成功した」と言い換えることができ、

認知症とは正反対の意味になるのではないでしょうか。

 

 

さて、このブログもコーヒーを飲みながら

書いていますが、コーヒーを飲むまでの

たったひとつの行為も、

「食器棚からコップを出す」

「ポットに給水する」

「ポットのコンセントを差し込む」

「コーヒーサーバーを食器棚から出す」

「サーバーの上にドリッパーを乗せる」

「ドリッパーにフィルターをセットする」

「コーヒーの粉をフィルターに適量入れる」

「沸いたお湯をカップに入れて温める」

「お湯が適温になったら注ぎ始める」

「決めた量に到達したら注ぐのを止める」

「カップに入っているお湯を捨てる」

「サーバーのコーヒーをカップに移す」

というふうにたくさんの工程から成り立っていて

その一つ一つの工程に対して、たくさんの

記憶が次から次へと想起されていかなければ

ならない、ということになっているのです。

 

 

 

若い頃からの習慣が

やがてできなくなってくる。

「ボケが始まったか…」となる。

そう思わざるを得ない出来事が

次から次へとやってくる。

やがて日常生活のほとんどが

うまくできなくなってくる。

 

そういう状態を想像できますか?

 

私はある出来事を通して

認知症の人の心理を想像しました。

次回、その体験談をお話しします。

 

つづく