算数教育メインストリームの宿痾(3回分の3回目) | メタメタの日
 ここで、講演会では次のパワーポイントスライドが示された。
「わかっていることをもとに、問題解決の方法を考えたり、理由を説明しようとしたりする考え方を演繹的な考え方という」
 むむ、これを演繹というか? 
「わかっている(個々の具体的な)ことをもとに、問題解決の(一般的な)方法を考えたり、理由(原理原則)を説明しようとしたりする考え方」というようにカッコ内の言葉を補ったら、これは帰納的な考え方のことではないのか。
 数学は一般的には、公理と定義から証明される定理から成り立つ演繹的な学問と理解されているだろうが、実際に数学(含む算数)の難しい問題を解くときは、具体的な数値や易しいケースの場合で試行錯誤しながら、それを基に普遍的な解き方を見つけ出そうとするのではなかろうか。つまり、公式に数値をあてはめるのではなく、個々の数値の場合から公式を見つけ出そうとする。(ところが、数学ができない人は逆に考えているようだ。だから数学ができなくなるのだが、と大言するとわが身に振りかかってくるが)。

 盛山さんのパワーポイントは、次のように言いたいのかもしれない。
「わかっていること(「ことばの式」として教わったこと)をもとに(にあてはめて)、問題解決の方法を考えたり(式を立てたり)、理由(どの「ことばの式」を使ったか)を説明しようとしたりする考え方を演繹的な考え方(学校算数の約束、学校算数のきまり)という」
 つまり、「学校で「ことばの式」として教わったことに数をあてはめて式を立てたり、どの「ことばの式」を使ったかを説明することが、学校算数の約束(きまり)である」と。
 かけ算の式についての学校算数の約束(きまり)は、以下である。
「かけ算の式は、1つぶんの数×いくつぶん=ぜんぶの数 です。」
 盛山さんは前述のように、この「きまり」を生徒に思い出させて、乗り越えてしまったわけだが、少なくない生徒がわだかまりを沈殿させただろう。
 「かけ算の式についての学校算数の約束」に意味や価値があるのだろうか。
 社会的には意味がない。
 社会では、「1つぶんの数×いくつぶん」だけではなく、「いくつぶん×1つぶんの数」と書くかけ算もあり、両方が社会では使われていることを、かけ算の導入段階は別にしてもどこかで(可能な限り早く)教えなくては、社会的には意味がない。
 では、社会では価値や意味がないかけ算の約束でも、学校算数の内部では矛盾を生じず、その体系の中では意味があると言えるのだろうか。すでに指摘されているが、算数教科書の中でも、「いくつぶん×1つぶんの数」と書く式が、小4の「あまりのあるわり算」の答えのたしかめの式や、小6の順列の場合の数を求める式(学校図書)で出てくるし、小2の交換法則をそのように理解することもできる。
 学校算数の体系内部でも、かけ算の約束は破綻しているのだ。
 
 盛山さんの講演で気になったことは以上にして、最後の坪田さんの講演。
 世代的に前の講演者より上(私と同世代!)で世慣れているということもあり、テーマが、分数÷分数はなぜ後の分数をひっくり返してかければよいのかの1点だったし、語り口も志ん生をほうふつとさせ(ほめ過ぎだが)、脱線が多かったから、特に俎上に載せるべき問題はなかったと思う。
 テーマについては、生徒がそれまで学んできたことを利用して、
 ① (分子÷分子)÷(分母÷分母)
 ② 通分して、分子÷分子。
 ③ わる数を整数にする(わる数の分母をかける。そして、分子でわる)。
 ④ わる数を1にする(わる数の逆数をかける)。
の4通りで説明されたが、いずれも数だけを使った説明。
 私も分数のわり算についてはいろいろ考えたが、小6のこの段階にきたら、図は使わず数を使った説明が良いということに落ち着いているから、異論はなかった。
 坪田さんは、分数のわり算というとすぐ塀にペンキを塗りたがるが、と言っていて、数教協のタイル図への批判かと思ったら、ご自身が執筆者に名を連ねている教育出版の小6教科書も、分数のわり算は板にペンキを塗ることから入っていた。
 
 さて、3人の講演から日本の算数教育のメインストリームの問題点(宿痾)と感じた点は以下のようになる。
 笠井さんは、39円持っていて15円の買い物をしたときのおつりという現実離れした問題を出した。
 また、120cmより40cm長いテープの長さを求めるたし算は、合併でも増加でもない新しいたし算だとした。
 盛山さんは、4個入りパックが10パックあったときの総数は4×10の式が正しいとし、その理由を「1つぶんの数×いくつぶん」という「ことばの式」に求めた。
 また、4×10を、10が4つで40とする理解を認めなかった。
 また、算数・数学の問題を解くときの帰納的な試行錯誤も演繹的な考え方とし、算数の演繹の出発点(「わかっていること」)を、学校で教えること(「ことばの式」など)とした。

 これらから透けて見えてくる小学校算数の宿痾は、小学校で教える算数に学校以外の算数(世の中で実際に通用している算数)が入ってくることを嫌悪し避けているということだろう。
 世間では、39円持っていて15円の物を買うときに39円を出したら間抜けである。
 世間では、たし算をするときに、合併か増加か、そのどちらでもない新種か、などと区別することはなく、区別なくたし算ができるようになればよい。
 社会が学校に、かけ算の単元で教えてほしいと期待していることは、子どもに「1つぶんの数×いくつぶん」と書く「きまり」を教えて問題文に「1つぶんの数」と「いくつぶん」があったらそのように書くという訓練ではない。
 ところが、小学校の算数では、算数のきまり(「ことばの式」など)の枠の中でそのきまりに合うように作成された問題を解かせること、ときにはひっかけ問題まで作ってきまりを強制することが、算数の教育と理解されているらしい。
 「小学校算数の体系知」の外にある社会の常識は、算数のきまりから演繹されないノイズとみなされているのだろう。(小学校の先生が、塾が教える受験算数をあれほど嫌悪する地盤にも、そういうことがあるのだろう。)
 正に算数のガラパゴス化だが、ガラケーしか持っていない私が言っても説得力に欠けることは如何ともし難いところが遺憾であるが。