「大きさのある点」「大きさのない点」 | メタメタの日

 前の前のアーティクルへのコメントで、

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「なぜ2時から5時までは3時間で、2日から5日までは4日間か」(『かけ算には順序があるのか』第3章)に触れて、おおくぼさんから、「分離量は『幅のある点』として数えて、連続量は『線の幅』を測っていると考えることもできる」というコメントをいただいた。(コメント5番)

「幅のある点」という考え方がとても面白くて気に入った。もとは大森荘蔵さんにある発想らしい。(コメント9番)

「大きさのある点」「大きさのない点」ということばをキーワードにして、もやもやしていた思考を結晶化してみると、以下のようになった。

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 「点」とは、ギリシア的発想では、大きさがないものです。しかし、「幅のある点」とは、「大きさ」をもつ何かです。何かである(規定)という認識が「自然に」(誰にとっても共通に)なされる何かで、ある何かと認識されるものが複数あって、個々の大きさは(厳密にみると)互いに違いがあるけれど、大きさの違いに関わらず何と認識されて、いくつ「ある(存在する)」と、かぞえられるものです。

 つまり、或る(規定)ものとして在る(存在)ことを認識するということは、有る大きさの認識を伴っているけれど、その大きさの違いを部分に分節せずに一つ(単位)として捉えるということであって、それが、あるもの(対象)を分離量として捉えるということでしょう。(正確に言おうとしたらわかりにくい文章になってしまった。)

分離量としてかぞえるということは、「大きさのある点」を大きさ(の違い)に関係なくかぞえるということでしょう。

「日」は、人類の認識の黎明期に、正にそういうふうにかぞえられたし、今もかぞえられています。

「時間の流れ」(時を流れるものとして認識するということも問題ですが)を分節するときに、先ず「日」を分離量として分節したということは、それぞれの日は、それぞれの夜によって昼として分離されているという認識が「自然に」(誰にとっても共通に)なされたわけです(厳密に言えば、極圏や極圏に近い高緯度地帯以外で)。また、日(昼)の幅の長さは、季節によって違うから、厳密に言えば、日(昼)によって違う。しかし、そういう大きさの違いに関わらず、それぞれの日(昼)を「一日」と認識して、かぞえる。このかぞえかたによれば、ある月の2日目から5日目までは4日間となる。

 時代をくだると、時間を連続量として認識するように「も」なります。

分離量の場合は「自然に」分離しているから、分離量の単位は「自然に」決まるけれど、連続量は連続しているから、その分節は人為的になされた。

一日(一昼夜)の単位の内を連続量として認識して、その大きさを分節するときも、その分節は人為的になされるから、文化によって時代によって異なる。江戸時代は、一日(一昼夜)を子の刻から始めて十二の刻に分節したけれど、一刻の長さは、昼と夜とでは、また昼夜の長さの異なる季節によっても、異なっていた。さらに、江戸時代の「刻」とは、それぞれの「正刻」という時刻(時点)を表わす(午の正刻は正午)とともに、たとえば子の刻が、子の初刻(午後11時頃)から子の正刻(午前0時頃)を経て丑の初刻(午前1時頃)までのおよそ2時間という時間帯を表わすという両義性もあった。

しかし西洋と西洋化された現在では、時刻(時点)とは、時間軸という数直線上の「大きさのない点」です。

2時から5時までは3時間」というときは、数直線上の2時という「大きさのない点」(位置)から、5時という「大きさのない点」(位置)までの長さ(大きさ)が3時間という意味になります。

2日から5日までは4日間」というときは、2日目という「大きさのある点」から、5日目という「大きさのある点」までの「大きさのある点」の数は4つという意味となります。(数直線上の2から5まで整数点は4個、という解釈は、連続量の枠組みでの解釈ですから、分離量の枠組みでの解釈とは異なります。2日目は「大きさのない時点」ではないし、2日目から5日目までの4日間は、数直線上の時点から時点までの長さではないのです。しかし、2日目のある時刻から5日目の同じ時刻までは3日間というときは、時間を連続量として数直線で考えています。この論点は、明治時代に藤沢利喜太郎がすでに指摘していることは、『かけ算には順序があるのか』110ページで触れましたが。)

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「大きさのある点」の点の数をかぞえるか、「大きさのない点」の点と点のあいだの大きさを測るか。同じ時間という対象を、分離量として認識して分節するときと、連続量として認識して分節するときとで、数え方・測り方に違いが生じています。時間も文化(フィクション)、数も文化(フィクション)であり、人間は時間や数という枠組みを通してしか外界を認識できない(のか?)ということは人間の理性の限界なのか。この理性の限界を理性で超えられるか。あるいは理性(あるいは理性以外のもの)で超える必要があるのか、などと考えています。