赤坂真理『東京プリズン』 | メタメタの日

 いとうせいこう氏は、朝日新聞の715日の書評欄で、「これは世界文学である。今すぐ各国語に翻訳して欲しい」と書いた。

 http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012071500011.html

読売新聞の文化部の記者・金巻有美さんは、104日の記事で、鹿島田真希『冥土めぐり』、水村美苗『母の遺産――新聞小説』とともに本書を「「娘を抑圧する母」を描いた小説」として挙げた。

 http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20121003-OYT8T00966.htm

 書評やインタビュー記事で絶賛が続いている。

 http://www.tokyo- np.co.jp/article/living/doyou/CK2012071402000221.html

 

 商業出版として成功しつつあるし、私も多くの人に読んでほしいと思う。問題作であり、読むに値する本であることは間違いない。が、著者が本書で問うているのは、商業出版も含めた戦後日本のあり方であり、その意味でインタビューアーも評者も問われる。

私は7年間、ある週刊誌の著者インタビューを生業とし生甲斐とした。(隔週で担当していた私の相方は、『モテたい理由』に続いて、本書でも赤坂さんのインタビューをした。

https://yorimo.yomiuri.co.jp/servlet/Satellite?c=Yrm0301_C&cid=1221816843146&dName=Yrm0301Def&pagename=YrmWrapper

もし私がこのインタビューを担当したら、間抜けなことは聞けないと沈黙の時間が多くなったことを恐れるし、そういう不手際で、鋭敏で繊細な著者に余計な気を使わせてしまうことを恐れる。赤坂さんは、商業出版に生きる者として、インタビュアーと読者にリップサービスを忘れていないことが記事からもうかがえるが、そういうウソっぽい構造をも本当は問うている。

   *

45歳の物書きのアカサカ・マリは、母親によってアメリカの高校に留学させられた15歳の自分と電話で話をする。

この小説の一つの主題は「聲」である。電話を通じて、過去から、15歳のマリにとっては未来から聞こえてくる声であり、夢の中で受話器から聞こえてきた「……ピーポゥ」という声であり、アメリカの高校生がディアハンティングで撃ったヘラジカがマリに言う「――見なさい。私が死ぬのを。」という声であり、「などてすめらぎは人間(ひと)となりたまいし。」という『英霊の聲』である。

15歳のマリは、アメリカの高校で、「天皇には戦争責任があるか」を論題としたディベートに肯定側として論述せざるをえなくなる。

『東京プリズン』は、天皇を訴追しなかった東京裁判の小説による再審であり(ディベートでは否定側「戦争責任はない」が勝つ)、あまりにもたくさんの人が亡くなった戦争を忘れている戦後日本に戦争を思い出させる小説であり、わずか1年でアメリカに挫折して帰国した自分を30年間忘れていた著者が30年前の自分に向かい合う小説となった。

あまりにも不幸な体験はなかったことにして精神の平衡が保たれるということはある。しかし、それは不幸の因果の連鎖を超えることにはならない。

戦争という悪夢を体験した平和と民主主義の日本では、戦争や軍隊は絶対悪であり、そこで思考が停止してしまうところがあった。少なくとも私には。そんな私も東京裁判と東條英機について書いたことがある。

 

私はリアルな文献と映像資料に拠ろうとしたが、赤坂さんの『東京プリズン』は、リアルだけに頼らない。それは、「こころ」を魂を共同幻想を描こうとしているからであり、目に見えないこころは、リアルだけでは描けない。小説という方法がそれを可能としたが、赤坂さんを誤解させる因ともなろう。

 

南北戦争で多くの人が死んだとき、アメリカは「ピープルの、ピープルによる、ピープルのための、政府(ガヴァメント)」という神話を必要とした、と書いて、続ける(297頁)。

「死んでしまう、死んでしまう、私たちは死んでしまう、日本人は。神話がない。アメリカのくれた神話はいいものではあったけど、それでは長く生き延びられない、私たちはそのとき、どうするの?(略)あれが過ちだったと言うこと? では過ちのために死んだ人はどうなるの? 死んだ人が徹底的に無意味だ。あんなにたくさんの、死んだ人たちはどうなるの?」

 

東京裁判の再審ディベートでマリは「大君」の声の拠り代となる。

「彼らの罪は、私の罪である」

I AM THE PEOPLE OF THE PEOPLE.

I AM TENNOU.

小説の危うさは赤坂さんの危うさでもあろう。

「ヘラジカは、木々の間を抜けると人の姿になった。白い古代の衣装を着けて、光り輝いていた。

『大君!』

私は思わず叫んでいた。

これが、人民のなかの人民ということか。」

「光とも人形(ひとがた)ともつかない大君が変化(へんげ)して、私の母親の姿になった。」

 

『東京プリズン』で、TENNOUは、父性でもあり母性でもある。

「『私は同胞の名誉の回復を望みます。私はTENNOUの再定義を、同胞のために望みます。それが定義できなくなったから、同胞の心は乱れてしまいました。(略)』」

それが、私が『東京プリズン』と相容れない一線である。私は、どういう意味でもTENNOUは受け入れられない。TENNOUGODであろうが、PRESIDENTであろうが、カリスマは道化によって相対化されることが必要だし、道化を必要とするカリスマがそもそも不要だと思っている。

しかし、「ピーポゥ」は人民(ピープル)であり、人民は一人ではなく共同体だということは、中心を必要としているのだろうか。

「『中心の虚無』がなければ円は生まれ出ないのです。そんな虚無が、必要なのです、世界に、いや宇宙には」(438頁)

   *

ヘラジカは言う、「――見なさい。私が死ぬのを」。

この箇所で、中島みゆきの「鷹の歌」が聞こえた。

「『見なさい』 あなたの目が

 『見なさい』 私を見た」

中島みゆきの歌は、かつて鷹と呼ばれた指導者が老残の姿を他人の視線に曝すことを恐れない様を描く。

ヘラジカは自らの惨めな死を「見なさい」と言い、鷹は自らの老醜を「見なさい」と言う。

先導者が失敗を過ちを恥を愚行を曝すことは、後から来る者に対する教訓のためだろうが、それは過ちを繰り返させないためでもあるが、避けられない過ちがあることを悟らせるためでもあろう。