「量の体系」が未完であることは当事者も認めている | メタメタの日

量の体系とは、いったい何の体系かということは誤解されやすいし、私も最初誤解しかけたのですが、物理学などの自然を対象とした体系ではなく、教え方の体系です。(もちろん、実在がどうなっているかという存在論と無縁な認識論も教育論もありえないのですが。)

「教え方の体系」ということは、生徒に教えるものではなく、教える側が理解しておくものということですが、教師の中には、外延量だとか内包量だとかという用語を生徒に教えたがる人もいないとは言えない。(気持はわかる。量の体系に感動したら、その感動を生徒と共有したくなる。)

 水道方式の四則計算問題のパターン分類は、私も、算数の計算ドリルを作るときに役に立った。問題をどうパターン分けしてどういう順で配列するか、パターンもれがないかをチェックするときにです。ひき算の求差・求残・求補も、わり算の等分除・包含除なども、どのパターンでも生徒がひき算、わり算ができるように教師が問題作成にあたって知っておくべき分類であったはずなのに、最近は、分類自体を生徒に理解させることに力点を置く教え方も出ているらしい。

 

 量の体系を遠山啓が提唱したとき、反対意見は数教協の内部にもあった。

 『教師のための数学入門 数量編』(163頁以下。1960年)によれば、こうです。

「先だっての高尾山の数教協の大会(引用者注:1959年)で、量の体系をつくったりすること自体が算数教育にとって有害無益ではないか、という根本的な疑問が出されたのである。(略)量についての私自身の考え方をつぎに要約してみよう。まず第一に物体もしくは物質と、量の関係についてつぎのように考える。『一つの量は、ある物体もしくは物質の一側面を表わす指標である。』(略)要するに量はそれ自身で存在しているものではなく、物質の影のようなものであり、物体の立面図や平面図のようなものといってよいだろう。(略)このような量からさらにもう一段抽象されたものが数であるとみることができる。2/3m2/3l2/3g‥‥から2/3という分数が抽象されるのである。(図略)このように分数は2段の抽象を経てつくり出されたものである。ここで異議をとなえる人はいるだろう。分数と物質との間に量という媒介物をおくことは余計な手数ではないかというのである。この点に意見の分かれめができるのであるが、私は量という媒介物を入れて、それを通して第二段目の抽象である数に進まないと、正しい算数教育をうち立てることはできないと考えている。(略)

もし算数教育が単に数学だけの基礎をつくればよいのであったら、量の問題に深く立ち入る必要はないだろう。しかし算数教育はもっと広い目標をもっていると私は考えている。それは自然科学ばかりではなく社会科学をもふくめて、およそ量的な考えかたすべての基礎をきずくのが算数教育の目標であると私は考えている。そのように広大な目標を念頭におくなら、とうぜん量を系統的に順序正しく学ばせていく配慮が必要になるのではないか。そのような必要があるにかかわらず、量の体系化はこれまで考えられていなかった、というのが現状のようである。誰も手をつけていない分野にはじめてクワを入れるのに、はじめから正確であることはできない相談であり、何度かの試行錯誤によってはじめて正しい線に掘り当てることができるだろう。」

 と、遠山が書いてから半世紀以上が経った。

 数という概念を、物→量→数、と唯物論的に構成することに(僭越ながら)私も賛成です。(歴史的に実証できないかと、試行錯誤しています。)

 しかし、銀林浩は、量の体系は未完に終わった、と書く。(数学教育協議会・遠山啓小冊子編集委員会『いま、遠山啓とは 遠山啓生誕100年・没後30年を記念して』所収。40頁以下。2011年)

「遠山流分類」として

      度

 内包量<    度的率

      率<

         率的度

の図を載せた後、こう続きます。

「私は、この分類法はちょっと『乗り過ぎ』ではないかと思った。それは『度/率』の区分そのものが、内包量の表現の違いに過ぎず、量の本質的性格を表しているか? という疑問である。

端的な例としては、「湿度」がある。ご承知のように空気の湿り気を意味する「湿度」には、空気単位体積中に含まれる水蒸気の量を示す「絶対湿度」がある。これは普通g/m^2(グラム毎立方メートル)で表示されている。これは立派な「度」であろう。一方「相対湿度」のほうは、空気単位体積中にある水蒸気の圧力が、同じ温度下で飽和状態になったときの最大蒸気圧に対してどのくらいになるか、によって測られる。こちらは2つの圧力の比率だからもちろん無名数で、パーセント表示される。日常生活ではこちらの相対湿度の方が多く用いられ、感覚的な実感もある。
 同じ量が「度」になったり「率」になったりするのでは、まともな量の分類とはいい難い。
 こうして「量の体系」の精密化と完成が期待されたわけだが、それは1968年頃から遠山さんが都立八王子養護学校に通って、障害児教育にのめり込むようになってからはほとんど放棄され、遂に未完のままになった。」

(※『いま、遠山啓とは 遠山啓生誕100年・没後30年を記念して』は非買品。数学教育協議会事務局TEL/FAX 03-3397-6688に連絡して購入しました。)

 数教協の当事者が未完で不完全と認める「量の体系」を検討することの、私にとっての意味は、一つには、算数で、速さや濃さや密度の単元を生徒に教えるときに、私自身が「量の体系」で教えられることが大きかったということがあります。

江戸時代までの日本の文化では、速さや濃さや密度はきちんと概念として捉えられておらず数値化されていなかったのですから、日本文化という同じ文脈の中に生きる現代の子どもにとっても分かりにくい(その必要性を感じない)のは、ある意味当然です。「量の体系」は、日本文化や日本語という文脈の中ではなく、算数・数学の文脈の中で速さや濃さや密度を教えよう(それらの概念の必要性から含めて)としています。


二つには、数の概念の歴史的誕生を実証するための導きの糸に「量の体系」がなるだろうということがあります。