誤解がないと思うけれど「大きさのある点」とは | メタメタの日

誤解がないと思うけれど、直前のアーティクルで論じた「大きさのある点」とは、素空間や素時間のことではない。

大森荘蔵さんが「点時刻」について、『哲学の饗宴』で村上陽一郎さんと議論しているときの「幅のある点」は素時間や素空間であって、存在論に傾いて論じている。(連続についても論じているが、それは分離量と対比される連続量についてではない。「分離量/連続量」というのは、存在論ではなく認識論の議論だということを再確認した。)

「大きさのある点」ということばで、私が思い浮かべていたのは、小学1年算数の教科書に出てくるドット図です。

ドット図のドットが目に見えるのは「大きさがある」からであり、その大きさが同じである(とみなす)ということは、大きさを部分に分割しない(ことになっている)ということであり、つまり、ドットは、それ以上分解できない「点」だということです。

教科書に出てくるドットは、分離量のシェーマ(半抽象・半具象のイメージ)としてのドットですが、分離量のシェーマとしては、教科書によっては、おはじきや棒や麻雀牌(としか見えない)が登場しています。

かつて遠山啓は、分離量から連続量に発展したときにも有効なシェーマとして正方形タイルを使うべきことを主張し、認識発展途上の子どもにとってシェーマは一つであるべきで、正方形タイル以外は使ってはいけない、というような原理主義的発言をしていて、私も鼻白む思いを抱いたことがあるのですが、今その出典元を見つけられない。遠山の意図を若干歪曲しているかもしれない。

 人間が対象を分離量としてとらえて、その多少を数に表わすときの個々の分離量の図的イメージは、やはり、「まるいもの」でしょう。

対象を、或る何かと認識するときには、対象の性質に注目はしているが、それが在ると認識するときには、対象の存在だけを問題にしている。存在だけが問題にされているもののイメージは「大きさのある点」でしょう。「大きさのある点」を図に描くとすると、点の形は特異点がない円がもっともふさわしい。点を二次元の図に描くとすると(小さな)円になるが、頭の中では球を思い浮かべているのかもしれない。あるいは、思い浮かべているときも円かもしれないが、それは人間の認識が、二次元の面として「見る」ことが基本になっているからかもしれない。(しかし今頭の中で円を思い浮かべようとしたら、それは円周の線ではなく薄くて平らな円盤のようなものでもなく丸い球のようなものだった。私の場合は。)

正四角形では4つの角に意味が生じてしまい、少なくとも分離量のイメージではないと思うのです。