自分が変わる&年収も上がる・リーダーシップ戦略 -16ページ目
ベスト8が出揃った…!


ちょっと期待していた智弁和歌山vs智弁学園の実現が可能な組み合わせになっている。


しかし各校それぞれの相手も強敵が揃っている。


ツーアウトからのドラマが多い今年の甲子園。


ツーアウトから、9回裏から、何かが起こる。


ピッチャーの力投が目を引くなか、

転がりながらノーバウンドでライナーに近いヒットを掴んでアウトにする守備もすごい。


ここぞという時にタイムリーが打てるバッターも集中力がすごい。


「一試合一試合、『これが最後』と思ってのぞんでいる。」

「負けたら終わりですから」


と何度か言ってた明徳義塾名将馬淵監督。


各校みんながそうかもしれない。


その気概でひとつひとつ

噛み締めながら戦うから、

発揮すべき力が発揮できるんだな。



高校野球が好きな人、

見るのが苦じゃない人は

見ながら色々学べるね。



同点、逆転、シーソーゲーム、
非常におもしろい試合が多いよ。

めちゃくちゃ神経使って集中してやってるにちがいない、という場面、だからこそのプレー、

何点離れてようが9回裏だろうが逆転の可能性を感じさせる高校野球。16,17歳が大きく見える。

一年生なんかだと15歳もいるぞ。


しかしながら監督は伝令に託してメッセージを届けねばならず、

直接グランドのメンバーに声をかけることができない。


ベンチから大声。か、サイン、か、

表情で表現。もどかしいだろうに。



監督といえば、明日の第二試合で登場する明徳義塾の馬渕監督、

勝つために手段は選ばない名将。
どんな手を使ってくるのか楽しみ。


智弁和歌山が今日勝ち上がり、
智弁学園も残っているので、
個人的にはまた智弁vs智弁があればちょっと面白いなと思っている。


過去にあったけど、ユニフォームが同じなので、どっちがどっちかわからん、みたいな絵面になる。


明日は4試合とも期待できそう。



高校野球の解説で、



「ファインプレーとか奇跡とか言いますけど、

 練習をきっちりしてるからですね」



というようなことが言われていた。



そう、奇跡的にみえるプレーでも


なんら奇跡ではなく、


練習を積み重ねたその通りにしているだけなんだ。



すごい事に見えるものも


実は超絶地道な日々の努力の延長上だったりするけど、


私達ってそういうのをすっ飛ばして


要は努力せずして一気に勝手に


すごくなりたいと思ってしまうもの。



そういう考え方をしていると


何者にもなれない気がする。




高校野球は素敵だ


SNS界隈をざわつかせている「県またぎの往来禁止」案件

 


オリンピックやっといて何言い出すねん、はごもっとも
 

 

県をまたいだ帰省、旅行は禁止なのに、


県をまたいだ通勤は禁止しないのかよ??
 

 

という意見は出てきて当たり前。
 

 

 

 

禁止にすると仕事に行ってもらえないので、


そうすると所得税を払ってもらえない、つまり税金が取れないので


そこは禁止しません!というお国の方針だと思われます。



泣く泣く予定をキャンセルする羽目になったら


ぽっかり日にちが空いちゃいますよね。

 


オンラインバーチャルツアーなんてのもありますが、


現地のガイドさんとZoomでつないで、映像を見せてもらう、、とか
 

 

私だったらごめんなさい、イヤかもしれない(笑)
 

行けないというフラストレーションが増えそう(笑)



無料でルーブル美術館バーチャル鑑賞とかあります。
これなら見てみてもいいかな。

 

 


あとはそうですねぇ、


プライムとかネトフリでウォッチリストにいれた作品を
 

片っ端から見る、とか。
 

 

時間かかりそうなので手が出せなかったドラマを見るとか、
 

いいかもしれません。



あと、オンライン飲みセットを宅配して飲み会する。
 

 

意外とオンラインでも楽しめるので、
 

 

やりたい!やってみたい!という人がいたら、
 

コメントでもメッセージでも連絡ください。

 

日にちが合えばやりましょう。

 

\

 

 

 

 

 

 


 

一般的に語られる「哲学」とは

「自己啓発」に近いです。

 

いや、むしろ混同されています。

 

 

 

人生哲学、

 

自分哲学、

 

●●さんの成功哲学、、、

 

 

 

なぜ、

 

哲学と自己啓発の混同が起こるかというと

 

ここ数年のブームで有名にもなりましたが、哲学者のデカルト。

 

彼の

 

「我思う、ゆえに我あり」

 

をご存知でしょうか。

 

まず哲学は、この世界の「真理」は何かを追求するところから始まりました。

 

真理とはざっくりいうと、「正しいこと。本当のこと」です。

 

 

この世界の本当は何かを突き止めるために、

デカルトが行ったこと、それは

 

「あらゆることを疑う」

 

でした。

 

とにかく片っ端から、疑って疑って、これウソなんじゃねぇの??って疑いまくって

 

最後に「どうしても疑えないもの」が残ったんです。

 

 

それが、『私自身が疑っているということ』

 

自分がいま疑っているんだ、ということは疑いようのないことだと。

 

 

それが『我思う、ゆえに我あり』

 

 

疑っている自分自身がいるということが

自分自身が存在する根拠になるのです。

 

 

これはいわゆる『実存主義哲学』と呼ばれる哲学史における初期の哲学です。

 

 

そして、この実存主義哲学が、自己啓発のベースになっているため、

自己啓発と哲学との混同が起こりやすくなっている。

 

 

どんなふうにベースになっているかというと

これ残念ながら、都合のいいところを切り取って、都合のいい解釈で形成されてきました。

 

 

実存主義というのは、

基本的には、自己の内面に向き合う思想がもとになるため、

自己啓発にめちゃくちゃ応用しやすかったのです。

 

 

「我思う、ゆえに我あり」は、

 

あらゆるものを疑いつくした結果、

 

それを疑っている自分自身だけは唯一、疑えない存在である

 

という論理から行きついた

デカルトの「答え」でした。

 

 

ただ、自分に向き合うという内側へのフォーカスとして

うまくビジネスにしたのが自己啓発市場です。

 

 

ニーチェに言わせれば、人間はエゴイズムの塊なので

自分自身について考えることが、なんだかんだで大好きなんです。

 

そういうときは悦に入ったりもできるので、

よくも悪くも自己啓発市場は肥大化してきました。

 

 

そして自己啓発の海に浸かったまま

哲学を見ると、自己啓発に見えてしまうので

その違いがわかりません。

 

 

実は、ぜんぜん違うんですね。

 

 

この世界の不条理を受け止めて、

折れることなく、今生きるこの人生を何度でも何度でも生きる覚悟を持つこと。

 

 

思考弱者向けの自己啓発は、

「承認」を受け皿にして、ルサンチマンの逃げ場を与えていたりすることが多いです。

 

ですが、本来の実存主義は、

決して承認欲求を満たして、解釈を捻じ曲げて逃げるものではありません。

 

 

哲学は、実存主義のその後、構造主義へと移っていきました。

 

構造主義はもはや、自分の内側へフォーカスする視点は全くありません。

 

 

自己啓発と哲学は違うものです。

 

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