◆「哲学」と「自己啓発」の関係◆ | 自分が変わる&年収も上がる・リーダーシップ戦略

一般的に語られる「哲学」とは

「自己啓発」に近いです。

 

いや、むしろ混同されています。

 

 

 

人生哲学、

 

自分哲学、

 

●●さんの成功哲学、、、

 

 

 

なぜ、

 

哲学と自己啓発の混同が起こるかというと

 

ここ数年のブームで有名にもなりましたが、哲学者のデカルト。

 

彼の

 

「我思う、ゆえに我あり」

 

をご存知でしょうか。

 

まず哲学は、この世界の「真理」は何かを追求するところから始まりました。

 

真理とはざっくりいうと、「正しいこと。本当のこと」です。

 

 

この世界の本当は何かを突き止めるために、

デカルトが行ったこと、それは

 

「あらゆることを疑う」

 

でした。

 

とにかく片っ端から、疑って疑って、これウソなんじゃねぇの??って疑いまくって

 

最後に「どうしても疑えないもの」が残ったんです。

 

 

それが、『私自身が疑っているということ』

 

自分がいま疑っているんだ、ということは疑いようのないことだと。

 

 

それが『我思う、ゆえに我あり』

 

 

疑っている自分自身がいるということが

自分自身が存在する根拠になるのです。

 

 

これはいわゆる『実存主義哲学』と呼ばれる哲学史における初期の哲学です。

 

 

そして、この実存主義哲学が、自己啓発のベースになっているため、

自己啓発と哲学との混同が起こりやすくなっている。

 

 

どんなふうにベースになっているかというと

これ残念ながら、都合のいいところを切り取って、都合のいい解釈で形成されてきました。

 

 

実存主義というのは、

基本的には、自己の内面に向き合う思想がもとになるため、

自己啓発にめちゃくちゃ応用しやすかったのです。

 

 

「我思う、ゆえに我あり」は、

 

あらゆるものを疑いつくした結果、

 

それを疑っている自分自身だけは唯一、疑えない存在である

 

という論理から行きついた

デカルトの「答え」でした。

 

 

ただ、自分に向き合うという内側へのフォーカスとして

うまくビジネスにしたのが自己啓発市場です。

 

 

ニーチェに言わせれば、人間はエゴイズムの塊なので

自分自身について考えることが、なんだかんだで大好きなんです。

 

そういうときは悦に入ったりもできるので、

よくも悪くも自己啓発市場は肥大化してきました。

 

 

そして自己啓発の海に浸かったまま

哲学を見ると、自己啓発に見えてしまうので

その違いがわかりません。

 

 

実は、ぜんぜん違うんですね。

 

 

この世界の不条理を受け止めて、

折れることなく、今生きるこの人生を何度でも何度でも生きる覚悟を持つこと。

 

 

思考弱者向けの自己啓発は、

「承認」を受け皿にして、ルサンチマンの逃げ場を与えていたりすることが多いです。

 

ですが、本来の実存主義は、

決して承認欲求を満たして、解釈を捻じ曲げて逃げるものではありません。

 

 

哲学は、実存主義のその後、構造主義へと移っていきました。

 

構造主義はもはや、自分の内側へフォーカスする視点は全くありません。

 

 

自己啓発と哲学は違うものです。

 

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