山本 真弓です。
 
 
 
重症心身障がい児だった次女について
 
過去にまとめたものをシェアしますね!!
 
 
 
次女との経験からの学びを通して
 
人としてたくさん成長させてもらいました。
 
 
 
それが、こちらのストーリーです。
ぜひお読みいただけたら嬉しいです。
 
 
壮絶出産で脳性麻痺に。NICUに長期入院し、2歳で天使になった次女の物語。
 
 
予定日2週間前。予想もしなかった命がけの壮絶出産。
 
2012年12月。
当時、長男6歳。長女3歳。
次女は我が家の第三子として産まれました。
 
 
妊娠中は順調でしたが、予定日の2週間前に突然大出血し、
救急搬送。
 
大学病院で超緊急大手術を受け、
次女は「重症仮死状態」で産まれました。
 
心臓マッサージが施され、ギリギリのところで
息を吹き返した次女。
 
 
「常位胎盤早期剥離」という、母子ともに危険な状態での出産。
私と次女は奇跡的に一命を取り留めました。
 
私自身もそのとき、助かる確率10%以下という危険な状態。
そこをくぐり抜けた、まさに奇跡の命がけの出産でした。
 
命は取り留めたものの…「脳性まひ」という重い障害が残った次女。
 
 
脳に酸素が届かない時間が長かったため、
次女は「低酸素脳症」となり、
脳の機能の大部分が失われ、自分で呼吸ができません。
 
 
 
NICUに搬送され脳の治療が行われましたが、
脳のダメージが大きく、脳性まひという重い障害を負いました。
 
後天的な障害に、私たちは動揺と混乱の毎日を過ごし、
どうしようもないショックを受けていました。
 
 
 
NICUに来たものの、数日間は生死をさまよう綱渡りの状態でした。
血圧が下がったからと、何度も病院に呼ばれては持ち直す、
そんな緊迫した産後でした。
 
次女は産まれてすぐに人工呼吸器が付けられました。
眼も開かず、身体も全く動かせません。
コミュニケーションも取れません。
 
 
ただただ、「なんでうちの子が…!!と
自分を責め、周りをうらやみ、
耐えがたい現実を前に、絶望の日々が始まりました。
 
 
 
 
自発呼吸ができず、NICUに長期入院。
 
NICU(新生児集中治療室)の長期入院が決まりました。
私は搾乳して母乳を届け、次女は鼻から胃まで繋がる
管を通して母乳やミルクを飲みました。
 
 
幸いなことに、NICUでは本当に本当に
愛情をかけて可愛がってもらいました。
今でもここのスタッフの方々には心から感謝しています。
次女のためにできることをただひたすら
やっていくことにしました。
 
 
車で往復2時間。2児を育てながら面会に行く日々を送る。
 
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私は1週間に3日、車で1時間かけて通い、
1時間だけの面会を毎週続けました。
土日には夫と当時まだ小1の長男と4才の長女も連れて
面会に行く日々。
 
 
 
長男長女はガラス越しの面会しか認められませんでしたが、
それでも自分たちの妹として優しく話しかけていました。
「妹は元気になればお家に帰れるんだ!」とただ純粋に信じ続けて。
 
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身体を動かすと心拍が上がりすぎるので、
抱っこは月に1回ほど、主治医がいる時でした。
沐浴も酸素管理しながら、5人がかりでした。
 
 
 
できることといえば、爪を切ったり、洗髪したり、髪を結んだり、
そんなささやかなことが次女にできる
精一杯の「子育て」でした。
 
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二度の手術。もう一生、自力で呼吸ができない身体になる。
 
生後4ヶ月。
 
「もうこの子は自力で呼吸をすることは望めないだろう」
と診断され、
喉から直接人工呼吸器を通すため、気管切開手術をしました。
 
 
このときのショックは計り知れません。
 
もう、頭が真っ白になり
目の前にグレーのベールがかかったような
そんな世界にかわってしまいました。
 
 
1歳3ヶ月の時には、
それまで鼻からチューブを入れてミルクを
飲んでいたのをやめて、胃ろう手術をしました。
胃に直接チューブを通してミルクを流すことになりました。
 
 
壮絶出産から1年4か月。NICUからの転院。
 
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そんな生活も日常になった頃。1年4ヶ月でNICUを退院し、
重度心身障害児者専門の病院に転院することになりました。
 
 
そこは4人部屋で、兄姉たちは初めて
次女のそばで触れ合うことができました。
 
 
でも、同時に私は仕事復帰をしたので、週に一度しか
面会に行けなくなりました。
 
次女は身体が弱っていき、
少しでも動かすと心拍が上がる状態になりました。
身体が動かせないので、リハビリの毎日でした。
 
 
 
「ここで一生、暮らすのかな…」
「この生活が一生、続くのかな…」
 
あまりにも激務で面会すら辛くなってきていた私は
もう心身ともに限界を超えていました。
 
ただただ、動かない次女の手をさすり
見守ることしかできない現状に
どうやって心を保っていきていけばよいか
わからなくなっていました。
 
 
2歳になったばかりで突然訪れた次女との別れ。
 

転院先で2歳を迎えた直後、

 

あることがきっかけで身体の機能が低下し、

容態が急変しました。

 

特別支援学校で教師として働いていた私は

「すぐに両親で病院に来るように」との連絡を受け

不安と恐怖で押しつぶされそうになりました。

 

 

肺炎により腹水がたまった次女は

「このままではあと数日が山」だと言われ

夫と二人、泊まり込みで付き添うことになりました。

 
私たち夫婦は初めて次女と一緒に夜を過ごすことになりました。
 
生まれてからこれが
最初で最後の親子3人の時間でした。
 
何もできず、弱っていく次女のそばで祈ることしかできない
苦しい時間が過ぎていきました。
 
その時すでに、「最悪の事態を覚悟して下さい」と言われていました。
 
夫は弱っていく次女のために
いつも上の子たちに読み聞かせていた絵本を
読んであげていました。
 
 
そして、
急変してからわずか5日後に、次女はお空に
帰りました。
 
 
2歳1ヶ月の濃く短い命でした。
2015年1月のことです。
 
 
 
でも、最期まで強く美しく生き抜いた次女。
 
「がんばったね」
「ほんとうに、あなたは強い子だったよ」
「生まれてきてくれて、ありがとう」
 
私は、腕の中で旅立った次女に
ありったけの感謝をこめて
そんな言葉をかけました。
 
 
 
次女は2年の人生をかけて
私たちにたくさんのことを
教えてくれました。
 
 
悲しみももちろん深かったのですが
それ以上に、
次女に対する感謝の気持ちと
ねぎらいの気持ちが
あふれてきたのです。
 
 
 
 
悲しくて苦しくてしかたなかったけれど
最期の瞬間まで
いろんな奇跡を見せてくれた次女は
まぎれもなく「強い子」だと思えました。
 
 
 
次女はとうとう一度も家に帰れませんでした。
 
お外の景色も見ることなく、
春になったら車椅子の練習をして、
病院の外をお散歩しようと言っていた矢先でした。
 
 
次女が帰ってきた日の夜。
 
初めて、長男長女とともに
「5人家族」で
川の字になり、一緒に眠ることができました。
 
 
悲しくも温かい、一生忘れることのできない夜でした。
 
 
 
次女からの学びを光に。障がい児ママに伝えたいこと。
 
ここまでが、次女誕生からお空に旅立つまでのお話です。
 
次女との2年間は、
それはもう人生の価値観がひっくり返るぐらいの
壮絶な経験でした。
 
次女は、重い障害を負うことを
お空の上で決めてきたのではないか?
 
 
そして、私にこの壮絶な経験によって
障がい児ママとして
さまざまな思いを味わうことを
学ばせるために来てくれたのではないか?と
思えるようになりました。
 
 
そして、その経験から得たことを
同じ境遇で悩んでいるママに
伝えていく役割を一緒に果たしていくために…
 
真っ暗闇でドン底だと思っていた
次女との2年間は
 
学びを受け取れるようになってからは
かけがえのない『光』に変わりました。
 
 
 
ほんのり照らす小さな光ではあるけれど
同じようなママの心が
明るくなってくれたらいいなとの
想いをこめて
 
『障がいのある子のお母さんに
経験を伝えていく』
 
という次女との「共同創造」をすること。
 
 
 
それが、私に与えられたお役目なんじゃないか?と
今は確信しています。
 
 
次女が壮絶な一生をかけて送ってくれたメッセージを
「私」というフィルターを通して
たくさん表現していこうと思います。

 

 

★次女についてのまとめ記事です★

 

《次女のストーリー ダイジェスト版》

壮絶出産で脳性麻痺に。NICUに長期入院し、2歳で天使になった次女の物語

 

 

《壮絶出産~NICU入院まで》

命がけの壮絶出産①突然の異変

命がけの壮絶出産②超緊急帝王切開

命がけの壮絶出産③奇跡の生還

命がけの壮絶出産④お願いだから生きていて

命がけの総絶出産⑤切ない初対面

 

 

《NICU初期のころ》

NICUのこと⑴生まれた証を残したい

NICUのこと⑵生きていることは当たり前じゃない。

NICUのこと⑶障がいを告げられた夜

NICUのこと⑷この子は強い子だから

NICUのこと(5)障がい告知直後~高すぎる壁の前で~

 

 

《天使になった時のこと》

娘が天使になった日のこと①~この子は強い子~

娘が天使になった日のこと②~急変~

娘が天使になった日のこと③~病状の宣告~

娘が天使になった日のこと④~最後の奇跡~