東山道をたずねて、今回は善知鳥(うとう)峠
各地で研究が進み、毎年のように新たな発見がされていますが、残念ながら長野県では近年の発見はあまりありません。しかし地名や古文書、発掘などで少しずつわかってきています。
飛躍的に進んだのは長野県では黒坂周平さんの研究によるものが大きいと思います。黒坂さんは地名から東山道の跡を推測しています。鍵となるのは[センドウ]という地名です。山道、先道、など漢字はいろいろありますが、地名は元々音に適当な漢字をつけたもので、殆んど漢字の意味はないと思っていいです。古代は「あずまのやまみち(東山道)」といわれ、官人たちは「トウセンドウ」と読んでいたと思われます。黒坂さんの研究は岐阜県で多くセンドウ地名を見つけ、それをつないで東山道の跡として提唱しています。
地名と、字境、今も残る道などから推察するのですが、私の住む飯田市では3つのルートが唱えられて決着がついていません。決定的なのは神坂峠。ここは必ず通っていたと思われます。そのあと上伊那になると発掘の成果などもあってほぼ確かといわれる道があります。そして上伊那から塩尻に抜ける峠は善知鳥峠。ここも確実に通ったはずです。
今回はこの善知鳥峠を歩いてみました。←クリックすると地図が出ます。
飯田から自家用車で中央本線みどり湖駅へ行き、ここの駐車場に停めました。
みどり湖駅周辺は上西条という地籍で、強清水という湧水地があります。強清水という地名は、峠の麓にある湧水につけられることが多く、まず最初の東山道の手がかりです。
神坂峠の岐阜県側にもあります。水量の多いものが強清水だそうです。

上西条の石碑群
江戸時代に、大変な苦行をした徳本上人が信濃に立ち寄り、各地にたくさんの揮毫を残しています。ここにもありますね。特徴のある字で、徳本、と言う署名があるのですぐわかります。ほかにも古い石碑が良く残っています。

①強清水を祀ってある神社

不思議な赤い色は絶滅危惧種の藻だそうです。
もうひとつ、善知鳥峠は松本に国衙が置かれてから使われています。神坂峠、入山峠、雨境峠より新しい峠と考えられます。
みどり湖駅から小野駅に向けて歩きます。

②国道153号線を歩きます。
伊那谷と松本平をつなぐ道なので、交通量が多いです。こんな道を歩く人はいないらしくて歩道がありません。




トラックがすごいスピードで通ります。危ないじゃない!と言う方が間違ってる?車にしたら邪魔な歩行者だったことでしょう。この道は山をくねくね登っていたのを、近年改造したらしく、洞に古い道が所々残っていました。東山道のころは山の上から強清水を目指して、もう少し高いところに道があったかもしれません。写真で言うと右の山の高いところ。
峠が見えてきました。

高速道路ができるまではここを通るしかなかったので、ドライブインや店が多く並んでいましたが、今は皆閉まっています。なので、もっと交通量が少ないと思っていたのに…。

振り返ると塩尻の東側が見えます。高ボッチ山のすそと、前回記事の山麓線周辺が見えます。

善知鳥峠は長野県の真ん中。ここは分水嶺で、左は太平洋へ、右は日本海で注いでいます。飯田の人は川は南へ流れるものと思っていますが、松本では北へ流れていきます。その出発点がここです。
奈良から蝦夷の地に行くのに、はじめは上伊那から諏訪へ出て、雨境峠を越えていましたが、松本へ国府が作られてからはこの峠を通るようになりました。神坂、雨境、入山(碓井)峠は古墳時代前からの道ですが、善知鳥峠は律令時代になってからの道です。それは踏み分け道ではなく、国家事業として築造された道に違いないと思います。残念ながらここを造ったと言う文献は無いですが。
この掘割はいつ造られたのでしょう。

さてところで。うとうとうげ、と言う地名。この由来はというと。

東国の方言で、このような山道を善知鳥坂といったことにはじまるそうです。
また。謡曲にほととぎすの鳴き声の由来として、こんな話もあります。

悲しいお話ですね。
もうひとつ、1983年にJRが大きく路線を変更しました。それまで中央本線は山梨方面から来ると、辰野へ大きく迂回し、分岐点となり、松本や木曽方面に行っていました。それを岡谷駅から塩尻へのトンネルを空けて、大幅に短縮した鉄道を引きました。今回止めたみどり湖駅はその時できた新しい駅です。みどり湖から直接小野駅に行くことはできず、行ったん岡谷か塩尻を経由します。

これにより、分岐点としてにぎわった辰野駅周辺は寂しくなりました。長野県はどうしても北に重心が置かれて、南信は取り残され感が強いです。
今回緑の矢印のように歩き、小野から電車でみどり湖へ戻ってきました。

次回は峠の釣堀屋さんと平出遺跡についてです。
~~~つづく~~~