先日、柴又の帝釈天に出かけたんです。
家族3人で、自転車で行きました。
で、そこで買ってきたのが
イモ羊羹ならぬ…
〝焼き〟イモ羊羹。
写真はないの、ごめんねー。
参道の、売店のおばさんが、ホットプレートの上にバターを溶かして
長方形に角切りにされた、イモ羊羹を焼いている…
その姿と、匂いにひかれて
購入したわけなのだ。
さて、夕食後
買ってきたイモ羊羹を
「そろそろ食べようか?」
というタイミングになった。
私は皿のかたずけをしながら、家族にその旨を伝えた。
すると父は、手際よく皿洗いをしながら
「先に食べてろよ」
というのである。
いつもの父である。
効率主義というかなんというか…
ちょっと犠牲心みたいなものを持っていて、
「俺は後でいいから、お前たちは先に幸せになりなよ」
みたいなニュアンスを匂わせる言動を
ちょくちょく、するのである。
きっと、父の目には
ばーちゃんが、映っている。
父は、酔うと
父が幼かったころの、家族の思い出をたびたび話す。
そんな父の話の中に出てくる、ばーちゃんは、決まって印象的で
家族の世話をすることを優先させていた…
いつも自分のことは、後回しにしていた…
そんな内容なのだった。
おふくろはいつも、一人でご飯食べてたよなぁ。
俺たち兄弟4人と、親父に先に食べさして。
自分は一人で台所で食べていた…
寂しくなかったのかなぁなんて、今も思うんだけど。
ばーちゃんは、たしかに献身的な人だった。
私も、そうやって、たくさん愛してもらった。
そして父の中では、その
ばーちゃんの姿こそが
愛するということの
基本的な型になっている気がする。
やさしかったばーちゃんのように、
自分のことは後回しにしておいて
相手を先に幸せにする…という
その行動こそが、
父にとっての愛情表現の型なのだろう…。
食後のイモ羊羹の話にもどる。
父は、食器洗いをしながら
私と母に
「先に食べてろよ」
とぶっきらぼうに言い放った。
いつもなら自分は、深く考えることもなく
父の言うがままに、
食器洗いをしている父を背にして
イモ羊羹を食べていたことだろう。
父は頑固なのだ。
異論を唱えたりすると、めんどくさくなる。
しかしこの日、私は
「なんで? いっしょに食べようよ?」
と
父に言ったのである。
なぜあの頑固で、めんどくさい父に
わざわざこんなことを言ったのか?
自分でも、ちょっと分からない。
とにかく私は、この時
自己主張をしたい気持ちだったのだ。
そして
「なんで? いっしょに食べようよ?」
と伝えた後に見る、父の顔は
嬉しそうにニヤケテいたのだった。
父には、父なりの愛情表現があるのだろう、と思う。
そしてそれが分かっているから、
私も、献身的(ある意味、自分勝手)に尽くそうとする
父の愛情表現を受け取ってあげたいと思っている。
しかし、私にとっての幸せは
父にとっての幸せとは
違うのだ。
父は、献身的に家族に尽くし、家族の喜ぶ顏をみることが
幸せだと感じているようだが
私にとっての幸せは、
家族みんなで
いっしょに
幸せを感じることなのだ。
それが実現するタイミングを待つことは
苦ではないし、
待つことを損とも思わない。
私の幸せ感も、父のそれと変わらない
自分勝手なモノなのだろうが…
ただ、私は
私が遠慮せずに言った、ひとことに対して
ニヤケた父を見て
コワモテで、めんどくさくて、頑固な父の前で
自己主張をして良かったなー
と思ったのだった。
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