こんにちは、心屋認定カウンセラーの
夏河和弘です。
お葬式に行ってきました。
親戚の人の、お葬式です。
お茶を配ってくれる、大きなお姉ちゃん。
気配り上手だね![照れ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/007.png)
![照れ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/007.png)
夏河は、お葬式が苦手でした。
あまりいい気分で、出席できなかったのです。
それには訳があって、
どんな気持ちでこの場に居たらいいのか
分からなかったからです。
夏河は、人の目を気にして生きてきた子どもだった。
だから、自分の立ち居振る舞いは、
周りの大人たちの出方を見て決めていた。
子どもの頃
自分の気持ちで考えたり、
自分の気持ちで行動したりすることを
ほとんどしてこなかった。
だからお葬式に連れてこられると、困ってしまうのだった。
死んだ人を目の前にして、どんな気持ちになったらいいのか、分からなかったからだ。
悲しそうな顔をしている、あの人たちみたいに
悲しもうとしてみた。
だけど、なにか違った。
亡くなった人を前にして、悲しもうとしている自分は
間違っていないはずなのに
正しいはずなのに
なぜか違和感があって…、
ちゃんとお葬式に参加できたハズなのに、
この違和感のせいで
終わる頃には、いつも気分が悪くなっていた。
今なら、その違和感の正体がわかる。
それは、
自分の本心からではない行動をしたために感じる、違和感だった。
お葬式の場で、
死んだ人を前にして、
悲しんだり、泣いたりするのは
当たり前のことだと思っていた。
悲しまないと、いけないものだと思っていた。
涙を流すのが当然なのだ、と思っていた。
こういった場では
悲しい気持ちにならなければ、いけないし、
悲しい気持ちになれない自分は
いけない人なのだ!
という思い込みがあった。
だから、いっしょうけんめい悲しくなろうとした。
この思い込みのおかげで、私は
周りの人からは、
思いやりがあって〝出来た〟子どものように思われていたらしいが
その実、
うわべだけが完璧で、中身がスッカラカンのまま
成長してきてしまったのだった。
今日の、親戚の人のお葬式では
私は、思うがままに、参列した。
自分の感情を、コントロールしなかったのだ。
亡くなられた人の顔を見て、
この後、この体は焼かれてしまうんだ…と思うと、悲しくなったが
湧いてくる私の感情は、悲しさだけではなかった。
手を合わせてお焼香をする時、頭の中に浮かんできた言葉がある。
・ 私たちは、いつも一緒だ。
・ 亡くなったからといって、一人になる訳ではないんだ。
・ 立派に生きて、死んだんだ。これが、悲しい訳がない。
死んだ=悲しい
だけではない。
死を前にして、
自分の気持ちで考えれば、
思うこと、感じることは、いっぱいある。
亡くなった人を前にして、
うわべだけ悲しむフリをして、
出来た人になろうとしていた、あの頃から比べると
私はだいぶ、自分の気持ちで
物事を考えられるように、なっているようである。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20200107/17/meron-bokujo/ca/44/j/o1080060714692236394.jpg?caw=800)
(いちばん下の姪っ子ちゃん)
親戚の人たちが集まって、
遊んでくれるお兄ちゃんお姉ちゃんもいて
楽しそう。
大人たちとは違って、悲しそうな素振りなど見せやしない。
だけど、それでいいのだろう。
これがこの子にとっての、お葬式なんだね。
夏河和弘の、アットホームなお茶会
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