(ひとしずく・㉗II.艱難期の始まり 第3部A)‐共謀団体の影響力‐ | sarah‐mercy

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 来たる艱難期 第3部A パート27 

 

艱難期の始まり  (ヨハネの黙示録8章1節~11章14節 )

                    

                       ロバート・D・ルギンビル博士著より

 

4)共謀団体の影響力:

この点も、艱難期の偽りの教えが背教の過程に与える影響として、

別途取り上げるべきものです。

艱難の特徴である悪魔に感化された「奇跡」による説得力は、

選民の信仰にさえ深刻な圧力をかけるほど驚くほど強力であることは、すでに見ました。

マタイ24章24節マルコ13章22節

このような圧力にもかかわらず、イエス・キリストを信じる熱心な信者は、

これらのことがどんなに奇跡的に見えても、自分の目で見えることではなく、

聖書に書いてあることに従い続けます。

経験に頼らず、適切な聖句をすべて適用するのです。 

 

 あなたがたのうちに預言者または夢みる者が起って、しるし奇跡を示し、

  あなたに告げるそのしるし奇跡が実現して、

 あなたがこれまで知らなかった『ほかの神々に、われわれは従い仕えよう』と言っても、

 あなたはその預言者または夢みる者の言葉に聞き従ってはならない。

 

 あなたがたの神、主はあなたがたが心をつくし、

 精神(文字通りには「命」)をつくして、[本当に]あなたがたの

 主を愛するか、どうかを知ろうと、

 このようにあなたがたを試みられるからである。

                         (申命記 13章1-3節) 

 

イエス・キリストを信じる熱心な人々は、

聖書と矛盾するいかなるしるしや不思議や奇跡にも優先して、

聖書の語ることに耳を傾け続けるでしょう。

彼らは、今日と同じように、すべての霊的指導者や牧師のために

「キリスト・<リトマス>テスト」を適用します。[1] 

 

 愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、

  それらの霊がから出たものであるかどうか、(確かめるために)ためしなさい。

 多くのにせ預言者が世に出てきているからである。

 

 あなたがたは、こうして[試して]神の霊を知るのである。

 すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊

 (すなわち、人や組織)は、すべて神から出ているものであり、 

 イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。

 これは、反キリストの霊である。

 あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、

 今や[その霊は]すでに世にきている。

                    (第一ヨハネ 4章1-3節) 

 

しかし、悲しいことに、信仰に弱い人の多くは、このような圧力に屈してしまうでしょう。

そして、多くの場合、彼らはトップダウンで(指導者が先に)誘導されるのです。

多くの背教の事例では、羊を飼うのが仕事である指導者や組織によって、

子羊が屠殺に導かれるのです。

実際、現在、ほんの少ししかキリスト教的でない宗派にいる人々、

あるいは、その指導者や「教師」がイエス・キリストの代表として

ひどい見本となっているところに属している人々は、

すでにとんでもない程、危険にさらされています。

 

上記の予言と類似の聖句によれば、これらの弱い指導者たち、あるいは罪深い指導者たちは、(私たちの時代にも、彼らは霊的無気力に引きずられ続けているのですが)

反キリストの爆発的な世界教会化運動にすぐに屈服し、

そのメンバーのほとんどを引きずっていくことでしょう。

艱難期の後半になると、この偽りの酔いしらされる酒に

反キリスト「不思議」が加わるので、なおさらそうでしょう。

 

このような信じがたいしるしや奇跡を行うことによって、この来たる偽りの宗教には、

とてつもない感情的権威が与えられるからです。

(これに抵抗できるには、目に見えるものよりも聖書を優先させるという

 確固たる決意を要するでしょう)

 

余談ですが、現在の世界は、過去に比べ、

このような欺瞞に対してより脆弱になっていることに留意すべきです。

歴史上かつてないほど洗練され、知識も豊富だと自負する世界にとって、

この発言は間違いなく滑稽に映るでしょう。

しかし、それは真実です。

なぜなら、この世で起こるすべてのことを物質主義的に説明しようとする現在の私たちこそが、獣の奇跡、つまり、容易に否定したり説明したりすることができないほど

圧倒されるしるしを前にして、いっそう脆弱になるからです。

神を知る者にとっては、このような現象は、あまり強い印象を与えることはないでしょう。

私たちクリスチャンは、物質に対する非物質の力を完全に確信しており、

聖書を指針として、神のしるしや奇跡とそうでないものを見分けることができます。

 

しかし、人類の大多数にとっては、

否定できない非物質的な出来事の体験は、抵抗するにはあまりに強力であることでしょう。

そして、霊的に弱っている、あるいは死んでさえいる、

いわゆるクリスチャン・グループの指導者やメンバーにとって、

これらの不思議は、「その者<来たるべきメシア>であり、

彼の新しい宗教が唯一の「真の道」であることを「証明」するために

必要なすべてとなることでしょう。 

 

このことが現実的に意味するのは、そのような組織や教派が

エキュメニカル運動に完全に売り渡され、その後(最後の3年半の間)の宗教に

全面的に組み込まれるようになると、それまで、

そして艱難期まで彼らと関わりを持ってきた信者たちは、

彼らの支配から逃れることがますます難しくなるということです。

 

自分にとって信仰と同じ意味になってしまっている組織から離れようとする事は、

無意識のうちに砂地獄の中に沈んでくようなものです。

これと同じ現象が、今日でも多くの教派で起こっているのを私たちは見ることができます。

不信心なエリートたちが、自分たちの教団を神や聖書からますます遠ざけていく一方で、

多くの教団員は、こうした動きに満足はしていないものの、

(誤った忠誠心、伝統、惰性から)自分たちが引きずられるのを許しているのです。

しかし、棄教の理由がどんなものとなるにせよ、

信者一人ひとりは主に忠実であり続ける責任があります。

棄教したのは指導者のせいだという言い訳は通用しません: 

 

 しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、

 それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。

 彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、

 自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。

 また、大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、

 そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。

                           (第二ペテロ 2章1-2節) 

 

 彼らはむなしい誇を語り、迷いの中に生きている人々

 (すなわち、偽教師)の間から、

 かろうじてのがれてきた者たちを、肉欲と色情とによって誘惑し、

 [これらの偽りの教師たちは]この人々に(規律ある生活からの)

 自由を与えると約束しながら、彼ら自身は滅亡の奴隷になっている。

 おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである。

 

  彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、

 この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、

 彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。

 

 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒め(キリストへの信仰)

 そむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。 

 ことわざに、

 「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、

  また、どろの中にころがって行く」とあるが、

 彼らの身に起ったことは、そのとおりである。

                      (第二ペテロ 2章18-22節) 

 

ですから、異教の宗教や、クリスチャンがほとんどいない死んだ教派が獣の宗教の軌道に

引き込まれることは一つのことですが、

少なくとも何人かの本物の信者で構成されているグループが共謀することは、

背教の実践を手助けするもう一つの強力な要因となるでしょう。

結局のところ、信者を所属する団体とともに背教に引きずり込む上で

支配的な役割を果たすのが、団体一丸主義であろうと、問題の教派の継続的な権威であろうと、敬遠されたり、差別されたり、迫害されたりすることへの恐れであろうと、

上に述べたような明白な欺瞞であろうと、ほとんど違いはないでしょう。

霊的に有害な関係を続けることは、信仰を危うくし、脅かすことに他なりません: 

 

 まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。 

                             (第一コリント15章33節) 

 

真理に無関心で、「耳障りの良い 」娯楽的な代用品を求める

今のラオデキヤ時代の流れは、艱難期には、サタンとその反キリストによって

キリスト教グループの世界的な宗教への同化と共同化のプロセスを

大いに促進させるものに置き換えられることになるでしょう。 

 

 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、

 自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、

 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。 

                               (第二テモテ4章3-4節) 

 

 しかし、御霊は明らかに告げて言う。

 後の時になると、ある人々は、惑わす霊悪霊の教とに気をとられて、

 信仰から離れ去るであろう。

              (第一テモテ4章1節) 

 

さらに、このプロセスは、上から下へ進むだけでなく、下から上へも進みます。

なぜなら、指導者が会員を堕落させるだけでなく、その逆もあるからです。

偽りの教えと偽りの教師がキリスト教団体と旧クリスチャン団体に

深いところまで浸透し始めると、これらの団体の多くの階層は、

(背教者であれ最初から未信者であれ)

「草の根」から指導者に参加するように圧力をかけるでしょう。

 

そのような圧力の下で、反乱や追放に直面し、最も忠実な指導者だけが、

仕事や評判を失い、さらに悪いことに、あえて抵抗することができる、

あるいはしようとするのです。

このような集団は、すでに精神的無関心に陥っているため、そのような抵抗は無意味であり、

さらにそのような集団の指導者の多くは、大多数の有権者の意向に従うことが予想されます。

このような現象を「金の子牛の妥協」と呼ぶことができるでしょう。

 

アロンがモーセ不在の時に、(自分の行動が間違っていることを認識していたにもかかわらず:

出エジプト記32章1-4節を参照)反抗的な群衆の要求にすぐに従ったように、

最も熱心なクリスチャンを除く大多数の霊的指導者も同様に、

艱難期の前半のエキュメニカル運動に妥協するという内圧に屈服することでしょう。

そして、アロンが金の子牛の祝宴を「主の祝宴」と呼ぶことによって、

この恐ろしい偶像崇拝を神の方向に導くことができると愚かにも考えたように、

出エジプト記32章5節32章6節を参照)

 

このような圧力にさらされた指導者の中には、善のために団体に繋がっているのだと

自分自身を納得させる人もいるかもしれません。

しかし、実際には、ついに最後の分離の機会が来たときに、分離しないなら、

霊的な災いを意味することになります。

さらに、指導者たちの場合、組織に留まって便宜を図ることは、

真にクリスチャンである人々に偽りの慰めを与えるだけであり、

いったん致命的な危険にさらされた組織と一緒にいることは、

背教につながるだけだという事実を分からなくさせることになるのです。

 

イスラエルの民は、キリストの予型としてよく知られているモーセが

出エジプト記32章1節;使徒行伝7章40節死者からの復活を参照)

長い間離れていた時、しかも彼が戻ってくる直前に、落ち着きがなくなり、

このようにとんでもない背教に陥りやすくなったことに注目するのはよいことです。

ですから、この場合も、キリストの再臨の直前、しかも最も長く不在だった時に、

大背教が多くの同胞を襲い、(アロンのように)

教会の最も著名な指導者たちが恐れから、反乱に巻き込まれることになるのです。

そして、当時の反抗的なイスラエルの民が自分たちを「エジプトに連れて帰」らせてくれる

モーセ以外の別の指導者を求めたように、

ネヘミヤ9章16-17節参照; 民数記14章1-4節も参照)

これらの元キリスト者は背教において、世界中の不信仰者と共に新しい救い主、

すなわち彼らに地上の天国を約束する反キリストを受け入れるのです。 

 

いわゆる 「キリスト教徒 」のグループが、

(後になってターゲットにされるというのではなく)

反キリストのエキュメニカルな運動の最初の基盤にならないかどうか、

少なくともそうした観点から考えてみる価値はあるでしょう。

は政治から着手するので、エキュメニカル運動は、

(これは後に普遍的で偶像崇拝的な宗教に発展することになりますが)

その当初は本質的に政治的な形成物であったと考えられます。

 

やがてわかるように、(そして、四騎士の記事ですでに予告したように)

艱難期前半は、並外れた激動の時代となります。

反キリストは間違いなく、その時点の恐ろしい世界状況に対する

政治的解決を約束することによって、多くの政治的支持を得るでしょう。

多くの宗教団体、さらにはキリスト教団体が

「善のため」に政治的な活動に関与する傾向があることを考えれば、

反キリストがこのような傾向を十分に利用することは、ありえないことではありません。

 

エキュメニカルな連携の最初の展開は、教義的なものよりもむしろ政治的なものであるため、

(信仰の領域での「協力」や強制は後になってから)

識別力の乏しい多くのクリスチャンが

(実際には真理やキリストから遠ざかっているにもかかわらず)

この運動を受け入れ、「キリスト教的」なことをしていると思い込む可能性があることは

容易に想像できます。

キリスト教や反キリスト教のグループを基盤にすることは、

反キリストにとって非常に明確な利点があります。

反キリストの偽宗教全体は、後に自分がメシアであると主張することに基づいています。 

 

 


[1] 『聖書を読む』の「キリストテスト:クリスチャンの基本的権利と責任」参照。 

 

--パート28に続く下差し

 

 

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昨日買い物の帰り、お店から出ると

道路の反対側を歩いていたおじいさんが杖を持ったまま転んで倒れました

誰も近くにいないし、起きあがれない様子だったので、

急いで近づき道路を渡ろうとしたら

丁度通りかかった男性が走り寄ってきて起こしてくれました

おじいさんは、『大丈夫、大丈夫』と言ったようで、

そのまま歩いて行ってしまいましたが、気が張っているのできっとどこか痛いはず

それでも、縁石に頭を打ち付けたり、車が通ったりしなくて

大事に至らず本当に良かったです

すぐに走り寄ってきて助けてくれた男性の機転、優しさにも、温かいものを感じました

その人の良心、人間性が、咄嗟の時に現れますね

 

夕食の時に、「どんなこともあるかもしれないから、

その時どうすべきか心の準備をしておくことも大事なことだね」

と、子供たちとも話しました

*:..。o○☆゚・:,。*

 

今日は友人のヘルニアの手術の日です

滞りなく行われますように、

また、いつも読んで下さっている皆さんの中にも

痛み、傷、苦痛、悲しみ、絶望のあるところに

癒しと慰め、希望がありますように

お祈りしますお願い

 


 

 

   ランタナ

   

 

 

     フェイジョア

      

 

 

        

 

  これは何の実かなぁ

 

 

        

              さくらんぼ*:..。o○☆゚・:,。**:..。o○☆゚・:,。*さくらんぼ

 

 

 

 

 

   のこのこ・・・・足あと              のそのそ・・・・・足あと  

      

   ロジャー君、ぐっすり寝てたから通り過ぎようとしたら

   むくっと起き上がり、来てくれたよ音符

   健気だねぇ

 

 

     ボク、ねむいわん・・・ぐぅぐぅ    

                   夢の続きを見てね(´艸`*)また来るねバイバイ

     

     今日もありがとう~ラブラブ