(ひとしずく・㉖II.艱難期の始まり 第3部A)‐艱難期の偽りのしるしの説得力‐ | sarah‐mercy

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からの続きです

 

 来たる艱難期 第3部A パート26

 

艱難期の始まり  (ヨハネの黙示録8章1節~11章14節 )

                    

                       ロバート・D・ルギンビル博士著より

 

3)艱難期の偽りのしるしの説得力

 艱難期の偽りの教えのうち、背教を助長するものとして特筆すべきは、

反キリストとその偽預言者が偽りのしるしを効果的に使うことです。

聖書は、この二人が悪魔の力で行うしるしは、人類史上前例のないものであり、

世界人口の大部分を獲得する上で少なからぬ役割を果たすことを明確にしているからです。

マルコ13章22節;黙示録13章3-4節,16章13-14節17章8節,17章11節,19章20節[1] 

 

 [艱難期に]にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、

  大いなるしるしと奇跡とを行い、

  できれば、選民をも惑わそうとするであろう。

                        (マタイ24章24節) 

 

 不法の者[反キリスト]が来るのは、サタンの働きによるのであって、

 あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、 

 また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。

 彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する

 を受けいれなかった報いである。         

                 (第二テサロニケ2章9-10節)  

 

 また、[獣の偽預言者は]大いなるしるしを行って、

 人々の前で火を天から地に降らせることさえした。

 さらに、先のの前で行うのを許されたしるしで、地に住む人々を惑わし、

 かつ、つるぎの傷を受けてもなお生きている先のの像を造ることを、

 地に住む人々に命じた。 

 それから、その獣の像に息を吹き込んで、

 その獣の像が物を言うことさえできるようにし、

 また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。

                       (黙示録 13章13-15節) 

 

しかし、そのようなしるしが未信者の目にいかに奇跡的に映ったとしても、

私たちクリスチャンは、見えるものによらないで、信仰によって歩んでいます。

第二コリント5章7節箴言3章5節

ですから、生ける御言葉、私たちの主イエス・キリストにヨハネ1章1-14節

忠実に従う者として、私たちは、目に見えるすべてのものよりも

神の言葉に完全な信頼を置き、聖書から真実だと分かっていることと矛盾するような

圧倒的な説得力を持つ「奇跡」に直面しても、

主が聖書を通して語られたことに常に注意を払う必要があるのです: 

 

 わたしはあなたの聖なる宮にむかって伏し拝み、

 あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、

 み名に感謝します。

 あなたはそのみ名と、み言葉をすべてのものにまさって高くされたからです。

                                   (詩篇 138篇2節) 

 

 天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、

 地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、

 種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。

  このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。

 わたしの喜ぶところのことをなし、

 わたしが命じ送った事[目的]を果す。

                   (イザヤ書 55章10-11節) 

                 

 主は仰せられる、

 わたしの言葉は火のようではないか。

 また岩を打ち砕く鎚のようではないか。

                   (エレミヤ書 23章29節)  

 

 わたしを主よ、主よ、と呼びながら、

 なぜわたしの言うことを行わないのか。 (ルカ6章46節)  

 

 初めに言[イエス・キリスト]があった。

 言は神[父]と共に互恵性(=同質性)があった。

 言は神であった。 

 この言は初めに神と共に互恵関係を享受してあった。 

 すべてのものは、これ[イエス・キリスト]によってできた。

 できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

                             (ヨハネ1章1-3節 英語直訳

 

 あなたがたは、聖書の中に(その読み方によって)

 永遠の命があると思って調べているが、

 この聖書は、わたしについてあかしをするものである。

                          (ヨハネ5章39節)  

 

 イエスは彼[弟子のトマス]に言われた、

 「あなたはわたしを見たので信じたのか。

  見ないで信ずる者は、さいわいである」。

                     (ヨハネ20章29節) 

 

 「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。

 しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。

 (つまり、聖霊がキリストの考えそのものである聖句を照らし出しているのです)

                             (第一コリント2章16節) 

 

 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。

 見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

                               (第二コリント4章18節) 

 

 わたしたちは、見えるものによらないで、(生きた言葉と書かれた御言葉に)

 信仰によって歩いているのである。

                  (第二コリント 5章7節)  

 

 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、

 人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

                          (第二テモテ 3章16節) 

 

 御子[イエス][父なる]神の栄光の輝きであり、

 神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。

                               (ヘブル書 1章3節前半

 

 というのは、神の言は生きていて、力があり、

 もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、

 関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、

 心の思いと志とを見分けることができる。

                    (ヘブル 4章12節) 

 

 さて、[生ける言葉と書かれた御言葉への]信仰とは、

 望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。

                                 (ヘブル11章1節) 

 

 わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、

 わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。

 わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。

 イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、

 その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、

 「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」

 わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。

                               (マタイ17章1-8節参照)

 

  こうして、預言の言葉(すなわち、聖書の言葉)は、(私たちが目で見たもの以上に)

  わたしたちにいっそう確実なものになった。

 あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、

(生ける御言葉であるイエス・キリストの再臨)

 この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、詩篇119篇105節参照)

 それに目をとめているがよい。

  聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。

  なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、

 人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。

                            (第二ペテロ 1章16-21節) 

 

 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、

 よく見て手でさわったもの、

 すなわち、いのちの言[イエス・キリスト]について――

                             (第一ヨハネ 1章1節) 

 

パウロがテモテに与え、すべての牧会者にも適用できるように、

(たとえ正当で可能であったとしても、奇跡を行うことよりも)

み言葉の真理を教えることに等しく重点を置くようにという明確な指示によって、

たとえそれとは反対の圧倒的な視覚的証拠を前にしても、

私たちがみことばに信仰を置くようにという強力な励ましが与えられています: 

 

 わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読することと、

 勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい。

                          (第一テモテ 4章13節)  

 

 よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老は、

 二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である。

                     (第一テモテ 5章17節) 

 

 あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、

 神に自分をささげるように努めはげみなさい。

                      (第二テモテ 2章15節) 

 

 御言を宣べ伝えなさい。

 時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、

 責め、戒め、勧めなさい。

              (第二テモテ 4章2節) 

 

そう、聖書は明確です。

私たちが注意を払うべきは神の言葉、私たちの主イエス・キリストの言葉であって、

私たちの目が見たり耳が聞いたりするようなことではありません。

私たちが見る「奇跡」「しるし」がどんなに素晴らしく、

前例がなく、説得力があっても、それが神の言葉によって否定されるなら、

私たちはそれを無としなければなりません。

エレミヤ10章2節;ルカ21章25-26節と比較してください) 

 

この原則は艱難期の私たちの行動に対して重要な意味を持ちますが、

その恐ろしい時代の入り口にいるラオデキヤの教会時代の私たちにも、

重要な適用があるのです。

私たちは、教会が聖書を誇りをもって教えることを優先するよりも、

物質的な世界、神の言葉よりも人間の業、体験や感情の高ぶり、

かつての奇跡、癒し、異言、聖書の真剣な研究よりも大騒ぎやファンファーレ、

カーニバルにますます魅了されている時代に生きているのです。

 

今、良き良心、良き価値観、そして聖書的な優先順位を築くことは、

役に立つというだけでなく、来たる試練をうまく乗り切る上で極めて重要です。

 

一方、艱難時代に獣とその偽預言者によって効果的に使われるような光景に

今過度に注意を払うと、信者は霊的に弱い立場に置かれるだけでなく、

その恐ろしい時代の圧力によって、

イエス・キリストから背教することになるかもしれません。 

 


[1]  パロの宮廷魔術師ヤンネとヤンブレが行った 「奇跡 」は、これと類似しています。

出エジプト7章11節,7章22節;第二テモテ3章8-9節

 しかし、過去も未来も、神の力は計り知れないほど優れており、圧倒的です。 

 

--パート27に続く下差し

 

 

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目に見えるものは現実だけど

目に見えるものだけが、全てではないですね

見えるものによらないで、

信仰によって歩くことが出来ますように

霊的な食物、御言葉で養われ、強められますように

お祈りしますお願い

 

 

       九州、四国地方は梅雨入りしましたね雨

       こちらも今朝は雨になりましたあじさい

       今日の分も、昨日歩いてきましたよ音符

 

 

 

 

 

 

    クモの巣ブーケをつけてる紫陽花

    

          スイカズラ

         

                  ホタルブクロ

                  

 

 

 

    

   

          黄色い花*:..。o○☆゚・:,。* *:..。o○☆゚・:,。*黄色い花

 

 

       親子の柴犬ちゃん、お母さんが何か教えているのかな?

       遊びたい盛りの子犬ちゃん       

       

      「わかってるわんビックリマーク

       

       今日もありがとう~ラブラブ