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来たる艱難期 第3部A パート25
艱難期の始まり (ヨハネの黙示録8章1節~11章14節 )
<「2)艱難期の偽宗教の説得力:」の続き>
d)包括的であると同時に排他的:
偽宗教のこの二重の性質も、その説得力の一因となるでしょう。
あらゆるものを傘下に入れる大「組織」であるという事実は、
あらゆる階層からの個人の参加を促すでしょうし、エキュメニカルな段階が始まると、
皆が流行りの運動に加わりたがるという心理が働くことによる効果を
過小評価すべきではありません。
あらゆる人がその軌道に引き込まれ、団体の力と、
事実上他の誰もが参加している何かに属したいという願望は、
ほとんどの人にとって抵抗できないほどのものであることが証明されるでしょう。
しかし、世界の人口の大多数がその中に吸い込まれて行くにもかかわらず、
神の御言葉に従うことを選んだ人々が含まれていないという事実は、
この「唯一の真の教会」、この「唯一の真の宗教」を受け入れた人々だけで構成される
排他的な新しい組織となります。
(後に大迫害の間にこの本当の信者に対して攻撃する一種の「十字軍」運動を生み出します)
このような圧力から逃れ続けることは容易なことではありません。
艱難期の前半が終わる前に、ノアとその家族が直面したのと同じような状況になることは
間違いありません。[1]
そして、ニムロデのバベルの塔建設運動に参加するようにという
ほぼ全員一致の同調圧力に抵抗することが非常に困難な問題であったように、
この未来の時代においても、異論を唱えることは重い代償を払うことになるでしょう。[2]
皆と反対の方向に進むことは決して容易なことではありません。
かつてのクリスチャンや友人や親戚が、まだ踏みとどまっている数少ない者たちに
信仰を捨てるように熱心に手招きする艱難期には、
このことがどれほど当てはまることでしょうか。
参加する人々にとっては、このほぼ普遍的な組織の中で
「安全」であるという約束は本物のように見えるでしょう。
その代わりに、イエス・キリストに忠誠を保ち忠実であり続けることを選んで、
<信仰を捨てることを>拒否する少数の人々にとっては、
仲間外れにされ、嘲笑され、やがて脅迫、強制、迫害に変わり、
艱難期の後半、大艱難を特徴づける大迫害で頂点に達するでしょう。
e)寛容であると同時に不寛容:
艱難期の偽宗教は、その<偽宗教内の>メンバーの行動や付随的な信仰に対して、
非常に寛容です。
「多くの門」があり、その偽りの霊性を追求する「多くの方法」があります。
これは、たとえば、正反対の実践の場合にも当てはまります:
- 快楽主義も禁欲主義も受け入れる:
- 一方では、艱難期の偽りの宗教は、快楽とそれに耽溺することの「神性」を公言し、(キリストへの信仰や悔い改めとは別に)普遍的な赦しを宣言し、あらゆる種類の行き過ぎに対する神の裁きを否定するでしょう。
- (コロサイ2章16節,2章20-23節; 第一テモテ4章3節;ヘブル13章9節参照)
- 一方、厳格な自己否定と厳格な食事規定を説き、キリストや聖書の真の用法に何ら言及することなく、違反に対する裁きを脅かすでしょう。
- (第二テモテ3章1-5節; 第二ペテロ2章1-2節, 2章13-14節; ユダ1章18-19節参照)
- これらの 「方法 」は、矛盾しているにもかかわらず、改宗者に受け入れられるものであり、両者に共通する唯一の特徴は、その本質において、どちらもイエス・キリストへの信仰と従順という恵みに基づく生活に敵対するものであり、どちらも聖書的な正当性を持たないということです。
- (ローマ14章17節;第一コリント8章8節,10章30節;第一テモテ4章4-5節参照)
- 放縦も禁欲も許される:
- 一般的に物質的なこと(食習慣は、上記の対立する二つの考え方のよい例です)について言えることは、性的な行動や飲酒や他の行動に影響を与える物質の使用に関しても真実でしょう。偶像崇拝は古来より、こうした点での放縦さで知られてきました。
- また、多くの偽りの宗教では、このようなことすべてにおいて独身を貫き、自己否定をするのが一般的です。
- 艱難期の偽宗教は、獣に仕える有効な方法として、どちらの「方法」も許します。反キリスト自身は、これらの事柄に対するアプローチにおいて型にはまらず、非道徳的で、通常の人間の常識を「超えた」行動を示すでしょう。
- (36-39節の文脈のダニエル11章37節)しかし、どちらのアプローチも神の目には有効ではありません。
- 感情論と合理主義の両方で表現される:
- 荒々しい恍惚と冷静な頭脳的「礼拝」の両方が、この来るべき偽宗教の信者を特徴づけるでしょう。
- 冷徹で分析的なアプローチを好む人も、感情的な解放を切望する人も排除されることはありません。しかし、いずれの場合も、霊とまことによる父なる神とイエス・キリストへの真の礼拝は拒否されるでしょう。
こうして、この新しい宗教は誰にでも当てはまるものを持ち、
両極端の行き過ぎた行動を合法化し、正当化し、「祝福」することになるのです。
イエスが導くところならどこへでも従うという献身的でないすべての人々が、
このようなすべてを包含し、すべてを許し、
すべてを寛容にするシステムに簡単に興味をそそられ、
誘惑されるのも不思議ではありません。
しかし、真のクリスチャンの信条や行動となると、来たる偽りの宗教は極めて不寛容です。
なぜなら、私たちは真理を知っているからです。
イエスは御父に至る唯一の門であり、(ヨハネ10章7節)
唯一の真理、唯一の道、唯一のいのち(ヨハネ14章6節)なのです。
私たちの信仰の絶対的な性質は、
(そして、その排除が悪魔の主要な目的であり、
この来たる偽宗教の背後にある主要な目的であるという事実)
あらゆる宗教の中で最も「寛容」なこの宗教が、真のキリスト教に従うことも、
真のクリスチャンの生存を受け入れることも望まないことを保証しています。
この極端な寛容と極端な不寛容の組み合わせもまた、非常に説得力のあるものになるでしょう。
対象が自分自身であるときには、
どんな行動に対しても完全な白紙委任<何でも自由にさせてくれること>を切望し、
対象が他の誰かであるときには、
「異常な」行動に対する揺るぎない不寛容を賞賛するのが、
人間としての私たちの本性だからです。
[1] 『サタンの反乱』第5部:「審判、回復、交替」、第III.1節、
「人間の血統(ネフィリム)の純潔に対するサタンの先祖返り攻撃」参照 。
[2] 『サタンの反乱』参照: 第5部「審判、回復、取り替え」、第III.2節
「人間の自由に対するサタンの洪水後の攻撃(バベルの塔:創世記11:1-9)」。
--パート26に続く
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トマスはイエスに言った、
「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。
どうしてその道がわかるでしょう」。
イエスは彼に言われた、
「わたしは道であり、真理であり、命である。
だれでもわたしによらないでは、
父のみもとに行くことはできない。
(ヨハネ14:5-6)
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