からの続きです
来たる艱難期 第3部A パート18
艱難期の始まり (ヨハネの黙示録8章1節~11章14節 )
艱難時代には、現在のように単に誤りを許すのではなく、
実際に誤りを助長することによって、彼らが本当にしたかったけれども
世界に対する神の憐れみのために、これまですることを制限されていたことを
ついに実行する力を与えることによって、
神は、不信心な者たちの心の本心と意思を疑いなく明るみに出されるでしょう。
神は、艱難期には、現在のように惑わされるのを許されるのではなく、
実際に惑わしを助長し、神の憐れみが世界全般に向けられていることを理由に、
今まで本当はしたかったけれど、抑えられていたためにできなかったことを
させることによって、不信仰者の心の本音と意図を疑う余地なく明らかにするのです。
(黙示録16章8-11節参照)
これらの災害で(すなわち,艱難期前半の警告の裁き)
殺されずに残った[すべての]人々は、
自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせず、
また悪霊のたぐいや、金、銀、銅、石、木で造られ、見ることも聞くことも
歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。
また、彼らは、その犯した殺人や、まじないや、
不品行や、盗みを悔い改めようとしなかった。
(黙示録 9章20-21節)
この箇所で特に注目すべきは、
「まじない」という言葉によって示されるさまざまな薬の使用を通して、
魔術と妖術が果たす役割です。
同じ語源を持つ他の単語(ファーマシーpharmacyや
ファーマキューティカルpharmaceuticalの語源)とともに、
ギリシャ語のファーマコンpharmakon(φάρμακον)は、
新約聖書では魔術や妖術以外では決して使われません。
(ガラテヤ5章20節;黙示録18章23節,21章8節,22章15節参照)
聖書的な見解からすれば、精神に作用する薬はすべて悪魔的なものだからです。
例えば、エレウシノEleusinianの秘儀における幻覚剤の使用は、
このようなカルトにおける「エクスタシー」の(あるいは「惑わし」と言うべきもの)
生成において、しばしば見過ごされる重要な要素です。
薬物使用と悪魔崇拝のこの明確な協力関係から、
艱難期には、すべての反神的行為の真の悪魔的性質がはっきりと明らかになり、
それに手を染める者たちに言い訳の余地がなくなることがわかります。
現状において、信者にとってのこの世との交渉は十分に困難なことであり、
未信者とどのように関わるかという困難は、その問題の少なからぬ部分を占めています。
艱難期には、反キリストの指導の下で、
事実上すべての不信者が積極的に敵対するようになり、
この問題の困難さは天文学的に増大するため、
ここでは、現在の不信者の堕落の仕組みと影響を、艱難期が始まると予測される加速度と
比較する必要があります。
「惑わしの力が送られる」範囲、規模、状況は、
今日行われている「惑わしのうちに放って置かれること」とはまったく異なりますが、
その仕組みと影響は同じです。
どちらの場合も、そのプロセスの始まりは、不信仰者が神の真理を拒絶することにあります。
どちらの場合も、神が引き起こしているのではなく、
不信仰者が自ら招いた霊的盲目に陥り、自らの心を硬くし、自らの良心を焼け焦がし、
罪深く邪悪な行動をますます加速させているのです。
どちらの場合も、神の真理と神のみこころを拒絶することは、
必然的にその人に悪魔の嘘を信じさせ、
自分の意志ではなく悪魔の意志を実行に移させることになるのです。
(神に仕えるかサタンに仕えるかの選択をするとき以外は、
誰も本当の意味で自分の自由意志を持っているわけではありません:
そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。
あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。
彼らの知力は暗くなり、(すなわち,真理の拒絶から生じる)
その内なる[意図的な]無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、
自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、
放縦に身をゆだねている。
(エペソ4章17-19節)
しかし、現在も将来も、不信仰者が誤りへと堕ちていくこのプロセスの核心は、
真理を拒絶することであり、(すなわち、神を信じないこと)
法と道徳によって抑制されなければ、良心を鈍感にし、心を硬化させる方向に進みますが、
現在、聖霊の抑制の務めによって課された限界があり、
それは良心と目に見える神の制度と協力して、大半の個人に許される堕落の程度を制限し、
また世界的に進む不法の範囲を制限しています。
これらは、ほとんどの場合、少なくともある程度はその<堕落の>プロセスを阻止します。
しかし、艱難期には、聖霊の<阻止する>働きが取り去られ、
他のすべての制約が減少するので、神の<惑わす>力が送られ罪と悪に身を捧げようとする
不信仰者の意志に、その良心と道徳の壁は破られてしまうことでしょう。
この「惑わす力が送られる」ことについて、
聖書の中で最も適切な例は、パロとその軍隊が、神の明白で否定できない力を前にして、
通常の状況下では人間ができることを超えて神に逆らうことを許されたケースです。
これらの(取り除かれた神の抑制と<惑わす>力が与えられて硬化した良心による)
二重の圧力は、かつてないほど世界の不信仰者を野蛮にし、
結果として信者を大きなストレスにさらし、多くの人のもろい信仰を壊し、
大背教に大きく寄与することでしょう。
イエス・キリストと一体となったクリスチャンである私たちは、
もはやこの世の者ではありません。(ヨハネ17章14-16節)
私たちは、この世の一部ではなく、暗闇の世界における神の光の証人として、
ここに留まっています。(第一ペテロ2章9節)
私たちの神への継続的な忠誠を通して、私たちを見るすべての人に、
(人と天使を問わず:第一コリント4章9節,11章10節;ヘブル13章2節;
この厳しい状況で私達を保つ神の忠実さと
私達の信仰の本物であることを示すことができます。[2]
私たちはこの闇の者ではなく、(使徒行伝26章18節)
イエスが私たちの永遠の福利のため仕えるためにこの世に送られたように、
私たちは、私たちの主イエス・キリストに仕えるためにこの世に留まっているのです。
(ヨハネ17章18節; 20章21節;第一コリント5章8節;ガラテヤ6章9-10節;
ピリピ1章21節;ヤコブ2章14-26節;マタイ28章18-20節参照)
ですから、世が彼を憎んだように私たちを憎むことも、
(ヨハネ15章18-19節,17章14節;第一ヨハネ3章13節)
この世で自分の命を憎み、(ヨハネ12章25節; ルカ14章25-34節参照)
この世に対して愛を持たないように命じられることも全く不思議ではありません。
さらに、特に今回の議論に関連しますが、私たちはこの世で、
キリストの教に基づかないものとの関係を持つことに注意するように言われています。
(第一コリント7章39節;エペソ5章5-7節参照)
不信者と、つり合わないくびきを共にするな。(つまり、親密な関係を持たないように)
義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。
キリストとベリアル(=悪魔)となんの調和があるか。
信仰と不信仰となんの関係があるか。
神の宮と偶像となんの一致があるか。
わたしたちは、生ける神の宮である。
神がこう仰せになっている、
「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。
そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」。
だから、「彼ら(=不義の民)の間から出て行き、彼らと分離せよ、
と主は言われる。
そして、汚れたものに触てはならない。
触なければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
そしてわたしは、あなたがたの父となり、
あなたがたは、わたしのむすこ、むすめとなるであろう。
全能の主が、こう言われる」。
(第二コリント6章14-18節)
しかし、光の証人として、私たちは世界から完全に孤立してはならず、
(第一ペテロ2章12節参照)
私たちの光を枡の下に置いてはならないことも明白です。 (ルカ11章33節参照)
あなたがたは、世の光である。
山の上にある町は隠れることができない。
また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。
むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、
そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、
天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
(マタイ5章14-16節)
恥ずべき行為をしている他のクリスチャンと縁を切ることは、
確かに義務付けられています。(第一コリント5章11-13節)
しかし、私たちは、不信者との接触を一切避けるために、
自分自身をこの世から物理的に排除しようとすることはできませんし、
そうすべきでもありません。
わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、
それは、この世の不品行な者、貪欲な者、略奪をする者、
偶像礼拝をする者などと全然交際してはいけないと、言ったのではない。
もしそうだとしたら、
あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる。
(第一コリント5章9-10節)
このように、不信心な世俗の世界と適切な関係を保つことは、
イエス・キリストに真に従うことを誓ったクリスチャンにとって、ユニークな挑戦です。
私たちは、この世の中に留まりながら、
どのようにしてこの世から自らを清く保つことができるでしょうか?
(ヤコブ1章27節参照; ヨハネ17章17節,17章19節;ローマ12章2節;
しかし、私たちが、その中で生活し、必要な活動を続けると同時に、
その活動の幾つかは、主に従って立派に行われれば、必要なことであるだけではなく、
不信者に対する証となるのです。
(使徒行伝20章34-35節; エペソ4章28節;コロサイ3章23節;
第二テサロニケ3章6-12節; 第一ペテロ3章1-2節参照)。
そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、
自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。
そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、
まただれの世話にもならずに、生活できるであろう。
(第一テサロニケ4章11-12節)
国家や社会一般からの迫害がほとんどない、あるいは全くない時や場所であっても、
クリスチャンが通る道は常に狭かったのです。
しかし、艱難期には、人間の罪深さと悪の抑制が取り払われ、強化されるため、
クリスチャンが世俗の世界と接するときに遭遇する困難のレベルは桁違いに高くなります。
かつては、例外的な迫害の時を除いて、
クリスチャンは、広く不信仰な世界との関係において、
少なくともある程度の礼節を期待することができましたし、
ナショナリズムの垣根があったために、真のキリスト教を実践するのに十分な法と
秩序が存在する世界では、少なくともある程度の安全な避難所を期待することができました。(第一テモテ2章1-2節参照: ローマ13章1-7節;第一ペテロ2章13-17節参照)
反キリストの世界的な政治はそのすべてを変え、
聖霊の働きの停止による抑制の無くなった状況の中で、世界の悪を告発する者もなく、
(ヨハネ8章36節参照)
出エジプトのパロが不法の新たな高みに達することが許されたのと同じ、
自己欺瞞を助長する精神が不信仰な全人類に行きわたり、良心を焼き尽くし、
心を硬くするプロセスは加速するでしょう。
ほとんどの人類が前例のないほど無法で罪深い状態に陥る時点は、
衝撃的な速さで到達し、クリスチャンは時代を嘆き、
キリスト教の愛を保ちながら妥協することなくこの世に生きるというのは、
飛躍的な挑戦となることでしょう。
この猛烈な熱さの中で枯れることを拒む強い信仰を持つクリスチャンにとっても、
ますます野蛮で敵対的な異教世界は、イエス・キリストのために生きるには、
現在よりもはるかに困難な場所となるでしょう。
主よ、わたしが呼んでいるのに、いつまであなたは聞きいれて下さらないのか。
わたしはあなたに「暴虐がある」と訴えたが、
あなたは助けて下さらないのか。
あなたは何ゆえ、わたしによこしまを見せ、
何ゆえ、わたしに災を見せられるのか。
略奪と暴虐がわたしの前にあり、また論争があり、闘争も起っている。
それゆえ、律法はゆるみ、公義は行われず、悪人は義人を囲み、
公義は曲げて行われている。
(ハバクク1章2-4節) [3]
まず次のことを知るべきである。
終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、
「主の来臨の約束はどうなったのか。
先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、
変ってはいない」と言うであろう。
(第二ペテロ 3章3-4節)
愛する者たちよ。
わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが予告した言葉を思い出しなさい。
彼らはあなたがたにこう言った、
「終りの時に、あざける者たちがあらわれて、
自分の不信心な欲のままに生活するであろう」。
(ユダ1章17-18節)
あなたがたは隣り人を信じてはならない。
友人をたのんではならない。
あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。
むすこは父をいやしめ、娘はその母にそむき、
嫁はそのしゅうとめにそむく。
人の敵はその家の者である。
(ミカ7章5-6節)
(エレミヤ9章4-6節; マタイ10章34-35節;ルカ12章51-53節参照)
そのとき、多くの人がつまずき、
また互に裏切り、憎み合うであろう。
(マタイ24章10節)
このように、見える世界と見えない世界の両方で非常に多くの下劣な活動が解放されるため、
特に信者にとっては、艱難期の生活が非常に耐え難いものになります。
特に、この退廃的行動の基盤は、(信者のために)
地球に神の裁きの前例のない洪水をもたらすことになる、
反キリスト支配の極悪な世界システムの上に積み重ねられるからです。
そのシステムが(信者のために)地球に
神の裁きの前例のない洪水をもたらすことになるのです。
悪に対する抑制が(それが法律であれ、良心であれ、神の代理人であれ)
取り除けられると、邪悪な行為が増長されるという原理は、直観的に理解できるし、
歴史的、現代的な数多くの例からも十分に明らかです。
さらに重要なことは、聖書にもしっかりと記されてあることです。
(エレミヤ5章1-5節参照)
1)法律の迅速な執行という抑制を取り除くと、犯罪行為が加速される。
悪しきわざに対する判決がすみやかに行われないために、
人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている。 (伝道の書8章11節)
2)文化的・道徳的水準の低下は、邪悪な行動を助長する。
卑しい事が人の子のなかにあがめられている時、
悪しき者はいたる所でほしいままに歩いています。(詩篇 12章8節)
3)邪悪な者への権力付与は、彼らの悪を加速させ、正しい行動を抑制する。
正しい者が勝つときは、大いなる栄えがある、
悪しき者が起るときは、民は身をかくす。 (箴言 28章12節)
4)神の基準の拒絶は不法を加速させる:
預言(字義的には[神からの]ビジョン)、がなければ民はわがままにふるまう、
しかし律法を守る者はさいわいである。(箴言 29章18節)
5)神の言葉の拒絶と犯罪の増加は、自制心の崩壊を加速させる:
イスラエルの人々よ、主の言葉を聞け。
主はこの地に住む者と争われる。
この地には真実がなく、愛情がなく、また神を知ることもないからである。
ただのろいと、偽りと、人殺しと、盗みと、姦淫することのみで、
人々は[すべての抑制が無く]皆荒れ狂い、殺害に殺害が続いている。(ホセア4章1-2節)
6)増加する無法状態は、正しい意見を押さえつけるほどに抑制を弱める:
わたしは知る、あなたがたのとがは多く、あなたがたの罪は大きいからである。
あなたがたは正しい者をしえたげ、まいないを取り、門で貧しい者を退ける。
それゆえ、このような時には賢い者は沈黙する、これは悪い時だからである。
(アモス書 5章12-13節)
7)真理を否定することは、自制心を弱め、
正しい行動を危険なものにするほどに自制心を弱める:
そこには真実は失われ、悪から遠ざかっている者も略奪される。
(新改訳Ⅳイザヤ59章15節前半)
[1] 出エジプト記14章:ファラオの心を堅くする」シリーズ、ペテロの手紙 第21課、
第26課、第27課をご覧ください。
[2] 『サタンの反乱』第一部:「サタンの反逆と堕落」I.3.d
「天使はいくつかの重要な点で人間と似ている」、ペテロの手紙シリーズ#22
「天使は私たちを見ている」を参照。
[3] ハバクク書の1章と2章は、バビロンとその王が艱難期のバビロンと
反キリストを兼ねており、「主の日パラダイム」の明らかな事例です。
「来たる艱難期」参照:第1部「はじめに」IV.1.a節「『主の日』パラダイム」参照。
--パート19に続く (ひとしずく・⑲II.艱難期の始まり 第3部A)‐多くの人の愛が冷える‐
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これらのことをあなたがたに話したのは、
わたしにあって平安を得るためである。
あなたがたは、この世ではなやみがある。
しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
(ヨハネ16章33節)
夕べは台風並みの強風でした
朝起きて、屋根が飛んでいたらどうしようね?・・・なんて話していましたが
屋根はちゃんとありました
感謝です
玄関前の紫陽花はリビングから見えないので、
長女さんが摘んで、水差しにしてくれました
もう9年目の紫陽花ですが
今では、私の身長を超すほど大きく育ちましたよ
裏庭の紫陽花も色づき始めました
完全に色づく手前の紫陽花も好きです
ピンク色の紫陽花は
もう少し後になりそうです
もう15年目の紫陽花、根元からも新しく咲き始めたよ
*:..。o○☆゚・:,。*o○☆:..。o○☆*
とら猫ちゃんもお花を見ながらお庭散歩してたの
また来るね
今日もありがとう~