からの続きです
ペテロの手紙シリーズ#18A
クリスチャンの生産と永遠の報酬
はじめに:
クリスチャン生活の目的は霊的に成長することであり、
他の人々も同じように成長するように助けることであることを説明してきました。
今までの研究では、この命題の最初の部分、すなわち個々のクリスチャンとしての
私たちの霊的成長を扱う、神の計画の四つの段階のうちの三つを考えてきました。
最初の三つの段階とは
1) 聞くこと(信者として、神についての情報を得るために積極的に行動すること)、
2) 信じること(聖書の真理を信仰によって心に受け入れ、自分の考えの一部とすること)、3) 生きること(この真理を積極的に生活に適用すること、
特にストレスや試練の時に真理の原則に考えを集中すること、
真理に従って生きるように努力すること、信仰、希望、愛の徳を生活に適用すること)。
これらの最初の三つのステップは、
(これはクリスチャンとしての経験を通じて継続しなければなりません)
私たちの人生に対する神の計画の第四段階である
「助けること」に着手するために必要不可欠な準備と糧を与えてくれます。
他のクリスチャンを助けることは、(そして他の人がクリスチャンになるのを助けること)
この地上における私たちの目的の究極的な成就であり、私たちの天の報いの基礎です。
それはまた、私たちの義務でもあります。
他の人の助けによって成熟し始めたら、愛の手を差し伸べて、
他の人が同じように成熟するのを助けるのが私たちの責任だからです。
IV.助けること:
「聖職者<英語でミニスターminister>」と聞けば、
多くの人は地元の教会の牧師を思い浮かべるでしょうが、
牧師は確かに聖書的な意味での「聖職者」ですが、
実はこの言葉には、信者がキリストの教会の他のメンバー(そして未信者にも)
に与えるすべての助けや奉仕が含まれています。
ギリシャ語のディアコノス(διάκονος)は文字通りしもべを意味し、
キリストが反目する弟子たちに
「一番偉くなりたい者は、皆のしもべにならなければならない」(マタイ20章26-27節)
と言われましたが、
私たちはこの言葉を「聖職者」と訳すのが正当でしょう。
もちろん問題は、英語のミニスターministerには
権威、地位、威信、選択権といった意味合いが含まれており、
ギリシャ語の「しもべ」には全く含まれていないということです。
現実には、キリストのからだのすべての成員は全体の奉仕者(しもべ)であり、
私たちの目や耳や腕や足がからだの他の部分から独立した機能を持っていると同時に、
どの部分も他の部分から分離して存在することはできません。(第一コリント12章12-26節)
神はキリストの教会を、私たち一人一人がなすべき仕事を持つように設計されました。
クリスチャンの「メンバー」一人一人には、
「からだ」の残りの部分のために果たすべき、重要でユニークなミニストリー(奉仕)
があります。
ある奉仕は華やかに見えるかもしれませんし、ある奉仕は平凡に見えるかもしれません。
ある奉仕は大きな注目を集めるかもしれませんし、
ある奉仕はほとんど気づかれないように見えるかもしれません。
ある奉仕は、今ここで多くの報酬に恵まれるかもしれませんし、
ある奉仕は、それを行う者にとって大きな重荷に見えるかもしれません。
ただひとつ確かなことがあります:
神は私たち全員に、クリスチャン生活で果たすべき奉仕を割り当てておられるということです。本当に重要なことは、
「私たちはそれを果たしているのか、果たしていないのか」ということです。
実を結ぶこと:
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、
父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、
もっと豊かに実らせるために、
手入れしてこれをきれいになさるのである。
(ヨハネ15章1-2節)
私たち神に従っていこうとする者(上の枝のように実を結ぶ者)にとって、
神は私たちのクリスチャンとしての生産が最大になるように
私たちの人生を導いてくださいます。
さらに、私たちがイエス・キリストにあって新しく造られたのは、
まさにこの目的のためなのです。(エペソ2章10節)
しかし、私たち「枝」が表立って物事を行う者かもしれませんが、
神が私たちのこの世で成し遂げる善い行いの源であることを忘れてはなりません。
私たちの主人であるイエス・キリストから離れては、
私たちは「実を結ぶ」ことはできませんが、
私たちがイエス・キリストについて行き、従い、
イエス・キリストのうちに「とどまる」とき、私たちは神によって、
私たちが選ばれた特定の務めを果たす力を与えられるのです。(ヨハネ15章5節)
また、実り豊かな生産を霊的成長と切り離すことはできません。
(コロサイ1章10節で両者は結びついています)
霊的な未熟さは、
私たちが他の人々の霊的な成長を助けるために教会に与えることができる助けを
必然的に制限します。
このことは、私たちがあるレベルの霊的成長を遂げるまで
実を結ばないことを意味するのではありません。
ヘブル人への手紙の著者は、まさにこの点で、彼らの失敗を咎めています:
彼らは長い間クリスチャンであって、
ずっと以前から他の人々に助けを与える側になっていたはずであったのに、
他の人々からの助けをまだ必要としていたのです。(ヘブル5章12節)
神の御言葉を聞き、信じ、実践することによって
霊的な進歩を遂げることをいつまでたっても怠る信者は、
その生産に限界があることに気づきます。
種まきのたとえは、人生の心配事や富や快楽を乗り越えることを怠る信者は、
雑草に塞がれた植物のようなものだと教えています。
人生の思い煩いは、彼が植えられたその目的のために実を結ぶのを妨げてしまいます。
ヨハネによる福音書15章2節で切り落とされた枝が証言しているように、
実をまったく結ばないことは深刻な問題です。
タラントのたとえでは、生産性のあるしもべがほめられ、
報われるのに対して、自分のタラントを土に埋めたしもべは、
主人によって外の暗闇に投げ込まれます。(マタイ25章14-30節)
このたとえの中で自分の一タラントを埋めたしもべも、ヨハネ15章2節で捨てられた枝も、
どちらも不信仰な者を表しています。
キリストを信じる真の信者が、何の生産ももたらさないということはあり得ません。
(ヤコブ2章26節)
また、たとえ話に出てくるような、「タラント」に恵まれたにもかかわらず、
わずかな「利子」しかもたらさないような、
生産性の低いしもべのようであってはなりません。(マタイ章25章27節)
ある人は他の人より多く持っているように見えるかもしれませんが、
私たちは皆、この世で神のために用いる霊的な「才能」を与えられています。
私たちは、「興味」を失い<正しく機会を用いて-投資をしなかったために
「利子」を設け損なう-神のために実を結ぶ機会を失う、という言葉にかけている。
英語のinterest(利子) には「興味/関心を持つ」の意味があります>、
それによって自分のユニークな宣教の機会が生かされないままにならないように
気をつけなければなりません。
もし私たちが霊的に成長したら、それは私たちが名前を挙げることができないほど
多くの人々からの助けなしには成し得なかったことなのです。
そうであるなら、私たち自身が助けられたように、
他の人々に手を貸し、霊的成熟に向かう旅路を助けることで、
何かをお返ししたいという願いを持つのは当然ではないでしょうか。
--ペテロ#18Bに続く
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昨日の暴風雨で、すっかり花びら散ったね
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ロジャー君のお鼻も可愛いよ
また来るね
今日もありがとう~