からの続きです
ペテロの手紙シリーズ#17F
6. 重圧の中での徳:
苦しみは徳を伸ばす最大のものです。
(ローマ5章3-5節; ヤコブ1章2-4節; 第一ペテロ1章6-7節)
クリスチャンとして成功するためには、私たちは苦難や逆境を、
「苦難を誇りとし」、「それをすべて喜びとし」、
この「信仰の試練は純金よりも価値がある」と認識するという、
世間一般の考え方とはまったく異なる方向から
とらえることを学ばなければなりません。
実際、私たちは、何不自由ない贅沢で平穏で
豊かな生活に召されているわけではありません。
むしろ、成長すればするほど、神によって試され、
磨かれることが予想されます。
主が私たちに言われたように、
「わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、
父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、
もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさる」(ヨハネ15章2節)
のです。
クリスチャン生活に行動の空白期はありえません:
霊的な安全は霊的なモーメンタム<勢いづいている動き>と密接に関係しているのです。
(ピリピ2章12節; 第二ペテロ1章10節; 第一ヨハネ2章24節, 第二ヨハネ1章8節)
また、単に歳を重ねていることと霊的成長はイコールではありません。(ヘブル5章12節)
(使徒パウロの極度のプレッシャーにさらされた人生が示しているように:
第一コリント4章9-13節; 第二コリント6章1-13節, 11章16-33節)
成長には試練が伴うものであり、成長すればするほど試練も多くなるのです。
このことは、真理を学べば学ぶほど、
その情報を自分の人生に適用する責任が重くなる(ヤコブ4章17節)
ことを考えれば納得できます。
真理の本質的な原則を学ぶことを肉体的な栄養補給に例えるなら、
御言葉を適用すること(真理の原則を日常生活、特に試練の時に実行に移すこと)を
肉体的な運動に例えることで、話を進めると、
重りを持ち上げれば筋肉に負荷がかかり、
適切な栄養補給と相まって筋肉が成長するように、
神は試練(困難な選択、苦しみ、喪失、祈りの答えの遅れなど)
という形で霊的な重りを私たちに与え、私たちを鍛えられます。
これらの重りを根気よく持ち上げるなら、私たちの信仰に筋肉がつき、
霊的成長の分野で前進することができます。(第一テモテ4章7-8節)
クリスチャン、特に真摯に前進しようとしているクリスチャンにとって、
信仰にかなりの重圧を加えるような非常に厳しい試練に直面することは、普通のことです。
アブラハムの例を取り上げてみましょう。
アブラハムは、自分が深く望んでいた世継ぎを得るために、
最初は神を信頼するのに苦労しましたが、
最後には、神がすべてを良い方向へ導いてくださるという信仰を持っていたので、
神の命令でその世継ぎを生け贄に捧げることを厭いませんでした。
また、長い間多くのことに耐えてきたヨブの例を挙げてみると、
彼はついに忍耐を切らしてしまいましたが、
神に叱責され、神の力と目的について自分は相対的に無知であることを思い知らされました。
なぜかはわからなくても良い理由をもって、
神様は私達に苦しむことを許されており、
神の<良しとされる>時と方法で解決してくださることを信頼するべきです。
悲しみ、失望、挫折、喪失、失敗のどん底にあるとき、
私たちは、”もうやっていけない”と感じるかもしれませんが、
神が私たちを助けてくださり、私たちの益のためにすべてを成し遂げてくださることを
信じなければなりません。(ローマ8章28節)
結局のところ、苦しみとは、
神に対する私たちの信仰、神の救いに対する私たちの確信に満ちた希望、
そして状況にもかかわらず神に対する私たちの愛の究極のテストなのです。
この涙と苦難の人生を歩むとき、
私たちは主が悲しみを乗り越えて私たちを導いてくださると信じることができるでしょうか。
その瞬間の心の痛みを超えて、その先にある輝かしい未来を見ることができるでしょうか。
痛くても主を愛することができるでしょうか。
主の御手を取り、すべての痛みには目的があり、
私たちにこの現在の苦しみとは比べものにならない永遠の「栄光の重み」
(第二コリント4章17節)を生み出すと信じることができるでしょうか。
多くのクリスチャンは、好天気には「信仰を持ち」、
神に望みを置き、神を愛することができますが、
人生の嵐が私たちに激しい打撃を与えたときには、
神への揺るぎない信頼、永遠という神の約束への希望、
神と神への愛を持つことが難しくなります。
しかし、このような時こそ、私たちの霊的な品性が真に試され、
私たちのクリスチャンとしての徳がどれほど深いものであるかを知る時なのです。
7. 祈り:
神との絶え間ない対話である祈り(第一テサロニケ5章17節)は、
徳を人生に生かすための重要な要素です。
ピリピ4章6-8節でパウロは、もし私たちが心配するのをやめて、
祈って神様に心配事を打ち明けるなら、
神様の平安、つまり人間のあらゆる不安を静めるのに十分な力強い平安が私たちを守り、
私たちの感情や思いそのものを守ってくださると教えています。
祈りによって得られる神の平安の中で、
私たちの神への信頼、神への愛、神の約束の成就への希望は、
一つの慰めとなり、私たちがまず神の御国を求めるなら、
地上の心配事はすべて解決されると、神にあって確信することができるのです。
祈り、特に一貫した持続的な祈りは、
クリスチャンの美徳を実践するために必要な習慣です。
祈りは、私たちの思考を神に向け、
神の力と私たちの問題に対する神の解決策に方向転換する第一の方法であるべきです。
祈るとき、私たちは神と神の助けが必要であることを思い起こし、
それによって私たちの思いを神の思いと一致させるのです。
8. 黙想:
詩篇1篇によると、「幸いな人」は主の教えを喜び、
その教えについて「昼も夜も黙想する」(2節)のです。
聖句の一片一片、聖書の教えのかけら一つひとつが
(多くの場合、すぐにはわからない形で)、
日を追うごとに包括的な理解と成熟した視点を形成する助けとなるのです。
私たちは、起きているすべての時間を、
主と主の教えを学ぶために費やすことはできませんが、
一日の中で考える時間はしばしばあります。
その合間に、私たちは何に思いを巡らせているのでしょうか。
悩みや問題に集中するのでしょうか。
むしろこのような機会を利用して、私たちにとって尊い真理を呼び起こし、
精神をリフレッシュすべきではないでしょうか。
私たちの肉体が機能するために絶え間ない血液の流れを必要とするように、
私たちの精神も絶え間ない真理の流れによって養われるべきなのです。
例えば、徳の基本原則、神への愛と感謝の視点、
神の約束への信仰、永遠の報いへの希望に焦点を当てることは、
このプロセスを開始する良い方法であり、
私たちの心に蓄えられている真理という素晴らしい「霊的資本」を引き出す良い方法です。
私たちの主が住まわれる「上<すなわち天>にあるものを求めなさい」(コロサイ3章1-2節)という命令を果たすことができるように、
真理を私たちの思いの中で何度でも「巡らせ」続けましょう。
結論:
クリスチャンの主要な徳(日々の歩みの重要な側面に関連する教え)に
思いを集中する習慣をつけることは、
神のご計画と目的の中での自分の位置を意識し続けるための貴重なテクニックであり、
霊的成長の不可欠な部分です。
私たちの人生に対する神のみこころを知り、
実行することが美徳思考の目的であり(コロサイ1章9-10節; ローマ12章2節)、
私たちの行動を特徴づけるべき徳を黙想するとき、
私たちは自分のクリスチャンとしての歩みを評価し、
御こころにもっと沿うよう動機づけられずにはいられません。(エペソ5章18節)
神への信頼、神が私たちに抱いておられる愛(私たちはそれを反映すべきです)、
そして神と共にある祝福された永遠という素晴らしい希望に
ますます一貫して焦点を合わせるようになると、
人生の欲望、心配、試練に対する解毒剤であるだけでなく、
神の力と神御身に信仰、希望、愛を置いている
クリスチャンだけが近づくことのできる喜びに与ります。
(第二コリント9章8節; ピリピ4章10-14節; 第一テモテ6章8-10節; ヘブル13章5-6節):
- 私たちが自分たちの全ての困難を通過するのを神が助けてくださると信頼するとき、
信仰に焦点を合わせます:
私たちは神が手をとって私たちを導かれるのに任せます;
どこに連れていかれるのかわからなくとも、私たちには恐れはありません。
なぜなら神が私たちのために最善をしてくださるという信仰があるからです。
(詩篇23篇; ローマ8章28節)。
-私たちが主の愛から離れ去ることのないように、
私たちのために代価を支払われた神を知ることができるように、
神は御子を犠牲にされるほど(ヨハネ3章16節)、
私たちのことを思っておられるかを私たちが思い出すとき、
私たちは愛に焦点を合わせます。(ローマ8章31-39節)
そうした愛を確信しているので、
私たちは主の栄光のために私たちの同朋に対してその愛を映し出すのです。
- ここでの私たちの人生は一時的なものですが、神の御前には栄光と幸福に満たされ、
苦しみのない永遠があり、新しいエルサレムに素晴らしい新しい体と
私たちだけの場所があるということを思い出すとき、
私たちは希望に焦点を当てます。
クリスチャンの美徳は、成熟のための学びであるだけでなく、
生きなければならない真理の原則であり、
それゆえに私たちが毎日考えるべき重要な真理なのです。
私たちが最終的にその上に心を休めるとき、
クリスチャンとして本当に重要な事柄に向かわせてくれます。
--ペテロ#17終わり
ペテロの手紙シリーズ18Aに続く
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信仰と希望と愛を持ち続けることが
私たちの喜び保たせ、平安を与え、
生きる意味を見出してくれますね
でも、自分の力だけではそれは不可能です
毎日の生活の中で、どこに焦点をあてて学び続けるか、
聖霊の助けを求め祈ることが
できますように
あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、
信仰により神の御力に守られているのである。
そのことを思って、今しばらくのあいだは、
さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、
あなたがたは大いに喜んでいる。
こうして、あなたがたの信仰はためされて、
火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、
イエス・キリストの現れるとき、
さんびと栄光とほまれとに変るであろう。
(第一ペテロ1:5-7)
感謝します
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「スーパーブック」子供用のアニメですが、宜しかったらご覧ください
お天気が不安定なので、晴れ間の内にと桜の様子を見に行ったけど
公園の桜はまだ咲いていなかったので
脇道に入ってみた
アスファルトじゃない道を歩くのは、何だか懐かしくて楽しい
薄曇りの中をどんどん入って行くと、一面に咲いているムラサキハナナ
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(2017年4月ももちゃん)
今日もありがとう~