(ひとしずく・ペテロの手紙シリーズ#18B) ‐生産(実を結ぶ)とは与えること‐  | sarah‐mercy

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 ペテロの手紙シリーズ#18B

 

生産とは与えること 

                   ロバート・D・ルギンビル博士著より

                                   (ichthys.com)

生産とは? 

1、生産とは与えること 

木が実を結ぶとき、その実を収穫して食べる人々には祝福がもたらされます。

これと同じように、私たちクリスチャンの「生産物」は、私たち自身のためではなく、

他の人々の人生を祝福するために存在します。

「実を結ぶ」とは、本質的に与える行為です。

それは常に、他者の霊的善のための努力と自己犠牲を伴います。

重要なのは贈り物の大きさではありません。

やもめの小銭は、神の目には金持ちの大金よりも「多い」のです。

マルコ12章42節;ルカ21章2節

主の御名によって与えられた一杯の冷たい水でも報われないことはありません。

マタイ10章42節;マルコ9章41節

 

また、贈り物は物質的なものである必要はまったくありません。

教えること、慰めること、励ますこと、親切な言葉、助けの手、

主の名によって、主の栄光のために行われる愛の言葉と行い、

これらはクリスチャンの愛から注がれる賜物であり、

私たちの霊的な賜物を最もよく補うものであり、

御子イエス・キリストという形で私たちに与えられる神の最大の賜物を

最もよく思い起こさせるものです。 

 

生産、ミニストリー、働き、キリスト教的奉仕など、

クリスチャンの「与える」という行為には、金銭的な贈り物だけでは意味がありません。

パウロは、ピリピの信徒たちが自分に与えてくれた恵み深い献金を称賛しながら、

自分が受け取ったお金よりも、彼らの行為が証明した正当な生産に対して

彼らの<天の>口座に入金された報酬の方を

はるかに喜んでいることをはっきりと明言しました。

ピリピ4章17節;第二コリント8章1-4節参照)

現代の皮肉な世の中では、このような発言は懐疑的に見られがちです。

使徒パウロほど、主のために極度の苦難と窮乏の生活を送った人はいないからです。

第二コリント11章16-33節

パウロにとって、金銭は宣教のための「種」、すなわち手段の一種にすぎません。

第二コリント8章9章

私たちが神のために行う奉仕は、真の奉仕であるためには、

他者の救いと成長のために自分自身を捧げるものでなければなりません。

キリストは、求める人には与えるようにと教えられました。

マタイ5章42節

ですから、私たちはキリスト教会の経済的な必要をないがしろにしてはなりません。

しかし、同様に、イエス・キリストの教会を啓発するために必要な親切な行為、

励ましの言葉、介在の祈り、真理の教えを、お金で代用できると考えてはなりません。 

 

聖書は、アベルは死んだとはいえ、彼が捧げたいけにえを通して、

神への信仰を世に証ししていると教えています。ヘブル11章4節

彼の血の犠牲は、罪の代価を支払う身代わり、つまり救い主の必要性を表していました。

犠牲を通してこの事実を認めることによって、

アベルは同胞に物質的な利益を与えたわけではありません。

(慈善事業にお金を捧げるように) 

彼らの最も永続的な働きのいくつかは、

今日に至るまで私たちを鼓舞する信仰の行為なのです。

ヤコブが、行いはしないが信仰はあると言う信者を非難するとき、

彼の善い行いの模範は、一人息子イサクの犠牲という極めて困難な試練において、

喜んで神に従ったアブラハムです。ヤコブの手紙2章21-23節

アブラハムによるこの従順の行為は、

他の信者に物質的な利益を与えるものではありませんでしたが、

アブラハムと同じように神を信頼するよう私たちを励まし、

今日でも私たちに宣教しています。ローマ4章17節

 

過去の偉大な信仰者たちも同様です。

ダニエルダビデステパノとそのような信仰に生きた人たちが偉大なのは、

金銭的な贈り物のためではなく、神への信仰行為を通して

神の誠実さを証しする実を結んだからなのです。

聖書に登場するこのような証となる事例のすべてにおいて、

これこそが贈りものの本質なのです。

贈りものにあずかる私たちを喜ばせる実とは、

生き生きとしたダイナミックな神への信頼であり、

神を賛美すると同時に、私たち自身のクリスチャン生活を前進させるよう励まし、

鼓舞するものなのです。

このような「実」が完全に熟すまでには、確かにある程度の霊的成熟が必要です。 

 

というわけで、私たちは元のテーマに戻ります。

霊的な生産において最も効果的であるためには、

私たちはまず、ここまでの研究の焦点であった「聞き、信じ、生きる」という

プロセスを通して、ある程度の霊的成熟を達成しなければなりません。

 

結局のところ、もし私たちがまだ主を本当に信頼するところまで到達していないのであれば、

未信者に主に信仰を置くように証しすることが、

どれほど効果的にできるでしょうか?

もし私たちが、天からの報いを本当に信じるところまで到達していないのであれば、

悲しんでいる人を慰めたり、霊的に疲れている人をキリストにあって喜びのうちに

進む気にさせたりすることができるでしょうか?

もし私たちが、人生において何よりも神を愛することをまだ本当に学んでいないとしたら、

いったいどうやって神のために激しい犠牲を伴う仕事を引き受けることができるでしょうか?

これらはほんの一例ですが、

私たちのミニストリーがどのようなものであれ、

「奉仕者」「奉仕される者」に提供するための霊的資本を心に蓄えていない限り、

(もしそれが軌道に乗ったとしても)

そのミニストリーが十分に効果を発揮することはないでしょう。 

 

生産とは、何よりもまず、神に対してではなく、

実際のクリスチャンであれ、潜在的なクリスチャンであれ、

私たちの仲間のクリスチャンに対して与えることです。

神は私たちから何も必要とはされませんし使徒行伝17章25節)、

実際、教会に委ねられた宣教の一つひとつの行為を、

大した努力もせずに自ら行うことができるのです。

 

つまり、神が自ら容易に手入れできるぶどう園で働くことを許されるのは、

私たちにとって稀有な特権であり、その結果、

私たちの主イエス・キリストという最も偉大な賜物に感謝し見習うために、

自分自身の何かを捧げることになるのです。第二コリント9章15節;ローマ5章15-17節) 

 

--ペテロ#18Cに続く 下差し

 

 

 

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「スーパーブック」子供用のアニメですが、宜しかったらご覧ください下差し

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 わたしの弟子であるという名のゆえに、

この小さい者のひとりに

冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、

よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。

(マタイ10:42)

 

感謝します

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晴れ雨が上がったので、昨日は長女さんと一緒にちょっと遠くの公園まで

何年かぶりに自転車で行ってきました音符(三つの駅を通り過ぎるの)

空もすっきりアップ

どこで🍙おにぎり食べようかなぁ~おにぎり

 

 

 

 

 

 

花びらが散っていたけど、おひさまの光を通してきらきらキラキラ

             

        

 

 

色々なわんずも楽しそうにお散歩音符(みんな写真撮りたかったよ~)

 

 

 

 

       

       メタセコイアの影も面白いねブルー音符

 

 

 

ここにはオタマジャクシがいて、子供たちがすくって遊んでいました音符

*:..。o○☆゚・:,。*写真はもう少し続きます

 

 

 

      ロジャーも、お父さんと一緒に散歩行ってきたみたいね音符

      ゆっくり休んでねzzz

      また来るねバイバイ

       

      今日もありがとう~ラブラブ