(ひとしずく・13艱難期の天の前奏曲 第2部B)‐虹‐   | sarah‐mercy

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艱難期の天の前奏曲 第2部B:パート13 

                      R.ルギンビル博士著より

虹

 また、御座のまわりには、

  緑玉<エメラルド>のように見えるにじが現れていた。

                          (黙示録4章3節後半

 

私たちが空に見る虹は、神の栄光が目に見える形が反映されたものです。

エゼキエル1章26-28節創世記9章9-17節を比較、下記を参照)

しかし、黙示録4章3節では、ヨハネは本物を見ています。

つまり、虹色の輝きで父とその御座を取り囲んでいる神の栄光を実際に見ているのです。

 

通常、この神の栄光の輝きは圧倒的で、人間には直接見ることも、

ましてや正しく描写することもできません。

(そのため、地上の表現では、単に「明るさ」と表現されることが多い)

しかし、前述したように、ヨハネはここで、

普通なら人間には見ることができないこの天の光景を見ることができるようになったのです。

虹の描写は、エゼキエルの描写と似ています。(C.F.Keil訳、強調と解説を加えてあります)

 

(26) 広がりの上に、(すなわち、大空または天の「圧縮された」障壁:上記参照)

 その頭上には、(すなわち、四つのケルブの頭上)

 サファイアの石のような玉座のかたちが見え、

 その玉座のかたちの上には、人に似た姿があった。

 それは、輝く真鍮(またはエレクトラム、琥珀:上記参照)のように見え、

 その中(すなわち、人の姿の中)に火のように見えるものがあり、

(27) その腰から上と、その腰から下が、

   火のようで、輝く光がその周囲にあったのを見た。

(28)雨の日に雲の中にある(雨の)弓のような様子で、輝く光がその周囲にあった。

  これは神の栄光の似姿であった。(エゼキエル1章26節-28節前半〔C.F.ケイル〕。 

 

この箇所は、虹と主の栄光が同義であることを明白にしています。

ですから、黙示録4章3節「御座の周りの虹」は、

それを見ることができるすべての人にとって、その栄光の現れとしか理解できません。

その輝き、明るさ、虹色の輝きは、私たちが時々見ることができる

地上の虹の栄光の反射を桁違いに超えていると想像してもよいのではないでしょうか。 

 

ヨハネは、虹の色を「エメラルドのように見える」と表現しています。

しかし、虹の色が全体的に、あるいは主に(この特別な宝石の通常の色である)

緑色であると想像してはいけません。

しかし、(ダイヤモンドやルビーは珍しく、比較的知られていない)

古代世界でエメラルドは、

広く流通していた宝石の中で最も価値のあるものでした。

それに加えて、ヨハネが神の栄光の虹色のオーラを、

エメラルドのきらきらした輝きのゆえに、

「エメラルドのようだ」と表現したことは間違いありません。

 

また、虹の比較対象として宝石を用いたことは、虹が私たちの目に映る反射像ではなく、

もっと具体的で触覚的な現象であることを示唆しています。

最後に、虹が最も貴重な宝石であること、またその輝きに加えて、

虹の触感を表すのに適切と思われる「エメラルドのような」という形容詞を

ヨハネが選んだのは、もう一つの要因があると思われます。

つまり、<エメラルドに>対応する言葉のヘブル語の「ベアケス」(ברקת)

「閃光」「きらめき」を意味し、この虹の輝きや鮮烈さを最もよく表しています。 

 

この虹の圧倒的な輝きは、今見てきたように、主の栄光の輝きであり、

その栄光は地上の遮蔽物なしに輝いているのですから、

心に留めておく必要があります。

なぜなら、神が地上でご自分の栄光を「現された」時というのは、

常に遮蔽された形であったからです

(そうでなければ、肉体が栄光を見ることに耐えられないからです)

 

 モーセが主の栄光を見ようとしたとき、

 主は「あなたはわたしの顔を見ることはできない。

 わたしを見て、なお生きている人はないからである」出エジプト記33章19-20節

と答えられました。

その直後、神はモーセにご自身の栄光を現されましたが、

それは、ヨハネがここで受けている「直接の御姿」ではなく、

「部分的な御姿」であることも明らかにしています。

出エジプト33章21-23節)。

 

また、地上で主の栄光が部分的に現わされた場合でも、

その強さと炎のような性質は圧倒的です。

出エジプト40章34-38節レビ9章23-24節歴代誌下7章1-3節

イザヤ6章5節エゼキエル1章28節マタイ17章5-6節ルカ2章9節)

 

上に説明したように、

世界は現在、天の障壁によって神の完全な栄光から分離されています。

歴史の終わりに神の栄光がついに地上に戻ってくるとき、

その障壁とその下の腐敗した世界(光に耐えられない)は火によって滅ぼされて、

「義の宿る」祝福の新天新地と置き換えられるでしょう。

イザヤ65章17節66章22節;第二ペテロ3章10-13節

 黙示録21章1節,21章5節;イザヤ34章4節黙示録6章14節も参照:

 

私たち信者は地位的にはすでにその一部となっている祝福された新世界:

 第二コリント5章17節 参照)に取って代わられます。 

 

このように、虹は、迫り来る艱難期の裁きの後の神の平和、

繁栄、回復の重要な象徴であり、神の栄光がもはや「天」だけではなく、

地上にも見られるようになる神の地上への最後の帰還を予見しています。

黙示録21章23節「神の栄光が…照らす」

 黙示録22章5節「神が彼らを照らし…」参照)

 

虹は神のしるしであり、

大洪水の後に地上に与えられた神の慈悲の約束として、

聖書を読むすべての人によく知られています。創世記9章9-17節参照)

このように、神の栄光が虹の形で現れることは、

来たる艱難期の嵐の後の祝福された神の平穏を予期しているのです。

 

この「祝福の余波」のような虹の形で

神の栄光をヨハネに見させることによって、

神は、来たる艱難期の荒廃にもかかわらず、地球が完全に破壊されるのではなく、

悪人の手から解放されて、来るべき御子の王国でこれまでは知られなかった

最も祝福された平和と繁栄が回復されることを

ヨハネと私達に保証しておられるのです。[1]

 

そして、その千年が過ぎると、神が私たちと共に永遠に生きるために

新しい地に戻ってこられる時、この世のすべての堕落と悪が、

神の栄光によって焼き払われる日が来るのです。

黙示録21章1-8節参照)

 

 その日には、神の栄光の燃える火の裁きは二度と見られることなく、

必要とされることもなく、代わりに神の栄光は、

人の目のまだ見たことのないどんな虹よりも、最も優美で燦然と輝く光、

恵みに満ち、より美しいものとして見られるようになるのです。 

 


 

[1]  同じように、キリストの型であるヨハネの黙示録10章1節に登場する

      虹を持つ強い天使も、

    戻って来られるメシヤの御姿における神の地上の再征服と回復を象徴しています。 

 

--パート14に続く 下差し

 

 

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 都は、日や月がそれを照す必要がない。

神の栄光が都を明るくし、

小羊が都のあかりだからである。

(黙示録21:23)

 

 

 夜は、もはやない。

あかりも太陽の光も、いらない。

主なる神が彼らを照し、

そして、彼らは世々限りなく支配する。

(黙示録22:5)

 

感謝します

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今日から3月ですね

昨日は朝から3度も軽い地震があって、明け方にもう一度、結構揺れました

”揺れてから8秒で行動をとる”と言われていますが、

取り合えず大丈夫そうだったので、トイレに行きました

 

夜からの雨が、今朝も降り続いています

だけど、虹の約束を心に描くだけで

思いが軽くなってきます

 

ハレルヤ

 

今月も宜しくお願いします虹キラキラ

 

 

 

 

 

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(2017年3月ももちゃん)

今日もありがとう~ラブラブ