からの続きです
来たる艱難期<パート87>:黙示録の歴史 第二部-A:
キリストの特別なメッセージ
1. 「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。
このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、
あなたを口から吐き出そう。」:
ラオデキヤの時代における、私たちの集団的な働きの質に関する
キリストの最初のコメントは、非常に衝撃的なものであり、
明らかに私たちの痛いところを突こうとしています。
なぜなら、この時代の信者が自分たちを弁護しようと考えることがあるとすれば、
それはまさにこのことだからです:
「熱意、霊性、霊的成長において欠点が見つかるかもしれないが、
私たちの行いがその欠点を補ってくれるに違いない!」。
これは、古今東西、あまりにも多くの信者や見せかけの信者が犯してきた、
一般的かつ危険な誤りです。
私たちが「神のために何かをする」ことができるという考えは、
全くの誤りであり、傲慢であり、神を冒涜する考えです
(第一コリント4章7節; ローマ11章35節も参照)。
私たちは行いによって救われたのではなく、恵みによって救われたのです
それなら、どうして恵みから離れて自分達の行いの報酬を期待できるのでしょうか?
確かに、イエス・キリストを信じる私たちの人生に対する神の目的の大部分は、
「悔い改めにふさわしい行い」をすることです
(マタイ3章8節, 5章16節; ルカ3章8節; 使徒行伝26章20節;
テトス2章14節, 3章1節, 3章8節, 3章14節; 第一ペテロ2章12節, 2章15節)。
しかし、ラオデキヤの住人は、賜物、特に神が私たちに与えてくださった賜物よりも、
自分たちの働きに感心しているため、私たちが持っているすべてのもの、「命と息と万物」
(使徒行伝17章25節)を与えてくださったのは、
実は神であることに気づかないことが多いのです。
実際、私たちが神に仕えることができるのは、神が私たちに個人特有の霊的賜物、
特定の務めを与え、その効果をあらかじめ定めておられるからなのです
主は私たちの奉仕を導き、力づけ、励ますために御霊を与えてくださいました
(ゼカリヤ4章6節)。
そして主は、永遠の過去において、私たちがなすべき業そのものさえも備えておられました
(エペソ2章10節)。
まじめに聖書を読むすべてのクリスチャンにとって、主の御前で誇れる根拠は、
私たちが行った業によるものでないことは明らかなはずです
(ローマ4章2節)。
なぜなら、私たちは主から離れては何もできないからです
(第一コリント12章3節)。
真の良い行いは、クリスチャンの継続する霊的な歩みの一部なのです。
そのような行いが有効であるためには、
その人がイエス・キリストを信じる者でなければならないことは言うまでもありません
(行いによる救いはないからです)。
さらに、霊的に成長し、自分の独特な賜物を認識し、
神が私たち一人ひとりのためにお定めになったユニークな働きに備えた後に初めて、
最も効果的に実をもたらすようになるのです。
言い換えれば、神の御計画、御意志、
そして神の基本的なルールに従って行われないものは、
神に「良い行い」と判断されるとしても、
わずかな実りしかない可能性が高いということです。
イエスは真のぶどうの木であり、私たちはイエスの中にある枝にすぎません。
イエスが私たちに言われたように、「イエスの中にとどまる」ことによってのみ、
私たちは真の実を結ぶことができるのです(ヨハネ15章1-8節)。
つまり、真にイエスの弟子であることによってのみ、
私たちは「生ぬるい」業ではなく、真に神を賛美する業を生み出すことができるのです
(ヨハネ15章8節)。
それゆえ、「主の名によって与えられた一杯の冷たい水」、
つまり正しい動機から正しい方法でなされた正しい行いは、
その報いを失うことはありません(マタイ10章41-42節)が、
キリストのために表向きだけ与えられた何百万もの水、
あるいは間違った動機から与えられた何百万もの水、
あるいは神のご計画に沿わない悪い目的のために与えられた何百万もの水は、
よく言っても自己宣伝のための無意味な行為です
(悪く言えば、自分自身の偽善を推し進めようとする傲慢な試みです)。
業による救いと個人的な義を求めるこの誤りは、
宗教改革前の目に見える教会で制度化され、
その制度における霊性の死の少なからぬ要因でした。
神が私たちから何かを必要としていると考えるのは、傲慢の極みだからです
(ローマ11章35節)。
そのような態度でいるとき、私たちは偶像崇拝をする異教徒よりも優れていると思いますか?(使徒行伝17章24-25節)。
現代の地上に見える教会で行われていることは、表向きはキリストのために行われていても、
実際には「木、干し草、切り株」にすぎず、偽りの動機から生まれた肉の業であり、
キリストが私たちの人生を評価するときには燃やされてしまう運命にあるのです
このようなラオデキヤの「業」を、主は総合的に評価されたのです。
明らかに、この時代に行われたことのすべてが無駄になったわけではないものの、
この非難がラオデキヤの性格を如実に示しているという事実は、
私たち皆を立ち止まらせるはずです。
それゆえ、この一面的な評価に続く「熱心になって悔い改めなさい」という命令は、
私たち個人には当てはまらないとどんなに感じても、
この時代のすべての信徒が心に刻むべきものです。
というのも、
主の御言葉の論理に意味があるとすれば、
この評価が他の人のためのものだと感じるのと同じだけ、
私たち自身にも当てはまる可能性があるからです。
結局のところ、(霊的な意味で)自分が豊かで裕福だと思っている人々は、
実際には貧しく裸で盲目なのです。
--パート88に続く
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あなたがたの救われたのは、
実に、恵みにより、信仰によるのである。
それは、あなたがた自身から出たものではなく、
神の賜物である。
決して行いによるのではない。
それは、だれも誇ることがないためなのである。
(エペソ2:8-9)
感謝します
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昨日は、小春日和のようなお天気で
風もなく、暖かだったのに
夜になって急に雷が鳴り、雨が降りはじめ
今朝は冷え込みました
雪が降っている地方も大変な寒さだと思います
今日もこれから台風並みの強風になるようですから
お出かけの方は、十分防寒対策して
冷えないように気を付けて下さいね
お祈りしています
(2018年1月ももちゃん)
今日もありがとう~