(ひとしずく・88来たる艱難期:黙示録の歴史 第二部-A)信仰を脅かす三つの教理  | sarah‐mercy

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来たる艱難期<パート88>:黙示録の歴史 第二部-A

 

「熱心になって悔い改めなさい」というキリストの命令を心に留めるよう、

自分自身を奮い立たせる必要があることは、ここで主が(ラオデキヤが感染していた)

自己満足の態度を明らかに嫌っていることを考えれば、なおさらです。

自己満足とは、(霊的に)熱くも冷たくもなく、

神への熱意に関してはぬるま湯に浸かっている状態のことで、

(おも)に優先順位の問題です。

 

私たちは神を愛し、大切にしていると言います…しかし、どれだけでしょうか?

 神は、私たちに代わって御子を究極の犠牲として捧げるほどに、

私たちを愛し、大切にしてくださいました。

神の愛、神の「熱意」は、私たちに代わってなされたこの至高の「わざ」によって、

また、私たちを気遣い、配慮してくださる神の無数の、多様で奇跡的なわざによって、

明らかにされています。

私たちはそれに応えて示す成果があるでしょうか? 

ラオデキヤの場合、その答えは「まったくない」のです。

なぜなら、彼女の働きは「熱くも冷たくもない」ものであり、

激しい愛と犠牲の伴うものでもなく、真の「熱心さ」もないからです。 

 

ラオデキヤの時代における優先順位と言えば、神は数ある中の一つに過ぎず、

一般的に言えば、最優先事項ではありません。

熱心で嫉妬深い神(私たちの神はそういう方です)は、日々、

そして御子という賜物において、かつて、そして永遠に、圧倒的なまでに、

私たちに対してその熱心さを示されました第一ヨハネ4 章10節)。

 

この神を、尊敬はするものの、それほど高くではなく、

他のすべての人や物(神々であれ、偶像であれ、偽りの優先順位であれ)を超えて、

何よりもまず尊敬するというものではないという生ぬるい態度は、忌むべきものです

「わたしの前に他の神々を持ってはならない」は第一の戒めです:出エジプト20章3節)。

 

神の目から見て受け入れられる唯一の態度は、パウロが告白している態度です。

(神から離れて)この世とその中にあるすべてのものを「ごみ」とみなし、

この世で成し遂げられたこと、得られたこと、

あるいは成し遂げられる可能性のあることはすべて、

来るべき日にイエス・キリストの承認を得ることに比べれば、

無に等しいとみなすことですピリピ3章7-11節)。 

 

まさにこの永遠の視点こそ、私たちの時代に最も一貫して欠けているものです。

以前の時代の明白な信仰とは対照的に、

現代では、天国の現実、死後の永遠の命、永遠の報酬、復活についての疑念が

絶え間なく聞かれされます。

そして、健全で熱心なクリスチャンの歩みに不可欠なこれらの真理が受け入れられていても、

その論理が私たちの生き方に適用されていないことがあまりにも多いのです。

パウロの

「私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」ピリピ1章21節

私たちの視点であるべきなのに、あまりにも多くの場合、

私たちの態度はむしろ、現在の生活を尊び、死を恐れているのです。

死を恐れること、来るべき栄光を疑うこと、

そしてこの地上生活に過度の近視眼的な焦点を当てることは、

信者の場合、すべて聖書の真理を学び、

適用することを一貫して怠っていることの症状であり、優先順位の低さが、

真の現実の理解や適用の低さに結びついていることの症状です。

 

要するに、原因も結果もぬるま湯に浸かっていることの症状なのです。

キリストの真の熱心な信者として、

私たちは、神がこの地上での私たちの忠実な奉仕に報いてくださることを理解し、

信じなければいけません。

ヘブル11章6節以下も参照第一コリント3章8節; ヘブル6章10節,11章26節

黙示録11章18節, 22章12節

 

地上で得られるものと比べて、来るべき報いの比類なき価値を信じ

ローマ8章18節; 第二コリント4章17節; マタイ6章19-20節; ピリピ1章23節参照)

復活を信じることですヨハネ11章25節; 第一コリント12章19節)。

 

このような深い現実を通して、私たちは死を恐れる必要から解放されました

ヘブル2章14-15節; 第一ヨハネ4章16-18節; 第一コリント15章54節;

  第二テモテ1章7-10節参照)

私たちが将来手にするものは、この世のどんなものよりもはるかに優れているのですから、

私たちは来るべきものに焦点を合わせるべきなのですコロサイ3章1-4節)。

私たちが愛すべきは今の世ではなくヤコブ4章4節; 第一ヨハネ2章15-17節

 以下も参照下さい:ルカ14章26-27節; ヨハネ15章19節)、

私たちの真の市民権がある来たるべき世なのですピリピ3章20節)。 

 

このようなクリスチャン疑惑の文化は、

私たちのクリスチャンとしての生き方が生ぬるい

(つまり、神と神の真理を求めるあらゆる機会があるにもかかわらず、

霊的に成長しなかった結果、霊的に未熟である)ことに起因していることに加え、

先に述べた相対主義が少なからず影響しています。

 

問題の一部は、私たちがこの時代に、目に映るものによって左右されただけでなく、

見かけの現実を受け入れてしまったことです。

この世の権威によって強化された相対主義の説教者に耳を傾けすぎる一方で、

このテーマに関する神の言葉にはあまりに注意を払わないできました。

この世に真に独立した主体は存在しないことを忘れてはなりません。

私たちは自分のものではないのです。

それゆえ、(それがこの世の極悪非道な支配者であれ、御霊であれ: ガラテヤ5章16-18節

私たちは聞くもの、注意を向けているものを信じます。

 

私たちは一つの教会の時代として、この世の雑音や知恵、

あらゆるメディアから途切れなく流れ出る科学的、技術的、

文化的なお喋りに過度に関心を寄せてきたことは否定できません。

しかし、私たちは神にどれだけ注意を払っているでしょうか?

神と神の助言を求めることに、どれだけの時間と労力を割いているでしょうか。

聖書を読む頻度は?

どれだけの頻度で祈っているでしょうか。

神の御言葉の教えを求め、理解することにどれだけの時間と労力を費やしているでしょうか。

 

なぜなら、私たちがこの世にいるのは、真理に対する弱い評価

(すなわち相対主義:エレミヤ23章26節参照)を通して

私たちの思考の型に神を押し込むためではなく、

主の真理と御霊を通して私たちのこの世的思考を完全に変えるためだからです

ローマ12章2節; エペソ4章22-24節; 第二コリント5章17節; コロサイ3章9-10節参照)。 

 

これらはすべて、かつての偉大な信仰者たちが

(聖書とその教えにしっかりと根を下ろして)知り、理解していたことであり、

彼らが考え、話し、行うすべてのことの基本原理として、

心の奥深くに据えられていたものです。

 

真理を本当に心から信じる者にとって、

真理は人生のすべてに影響を与えるものであり、

真理を信じるそのような信念を離れては、真の熱意や熱狂はありえません。

一時的で短時間の熱狂は、さまざまな手段(激励の言葉、感動的な音楽、感動的な儀式など)

によって錬り上げられたり、誘発されたりするかもしれませんが、

そのような偽りの熱狂は、それを生み出した刺激がなくなると

すぐに朝もやのように消えてしまい、人生の重圧(ましてや来たる艱難期の重圧)

のもとではまったく役に立たちません。

 

神のみことばの一貫した教え、

すなわち神の真理のあらゆる側面と聖句のあらゆる部分を掘り下げる教えの代わりに、

このラオデキヤの時代には、聖書が多くの重要な面で語っていることの、

表面的で単純化された概説に落ち着いてしまっています。

 

この不健全な傾向の三つの主要な例として、

「携挙」、「組織的安全保障」、「永遠の安全保障」の教えが挙げられます。

(これら三つはすべて、私たちが過去に研究したものです:

 ペテロの手紙シリーズ#27「信仰を脅かす三つの教理」左矢印を参照してください)

 

艱難に備えることの重要性は、「携挙」という単純で誤った教えによって損なわれてきました。霊的成長のために個人的責任を負うことの重要性は、

教会員であることや教派中心のキリスト教という誤った強調によって損なわれてきました。

個人の聖化とイエス・キリストの弟子となることの重要性は、

「一度救われれば、いつでも救われている」という誤った教えによって損なわれてきました。

 

これら三つの教えはすべて、聖書的見解を間違って述べるほど単純化しすぎたもので、

聖書への不注意がいかに現代の生ぬるさを助長しているかの一例です。

 

というのも、もし私たちが艱難に直面する必要がなく、

単に組織に参加しているだけで霊的に「正しい道を歩んでいる」のだとしたら、

そして、この世で何をしようとも永遠に安泰なのだとしたら、

神が私たちに求める熱心さの自然な動機の多くが欠けてしまうからです。

実際にはそのようなことはないのですが、

現代において最も熱心であるべき多くの人々の心の中では、

この種の誤った教えが真実とみなされ、

そうでなければ熱烈になるはずの神への熱意の多くを消してしまっています。 

 

信仰を萎縮させるこれら三つの有名な誤った教えと同様に、

この地上における物質的繁栄、特に並外れた物質的繁栄は、

イエス・キリストを通して神と密接な関係を持つことの究極的

かつ必然な結果であるという考え方があります。

この考え

(その最も極端な形は「繁栄の福音(prosperity gospel)」として知られています)

の誤りについては、以前にも詳しく扱ったことがありますが、

ここで指摘する必要があるのは、私たちの物質的な豊かさが、

私たちの側で何らかの特別な霊的地位に到達することと

何らかの形で関係しているという暗黙の、

あるいはほとんど意識していない思い込みでさえも、必然的に事象を見誤るものであり、

信じられないほど危険なものであるということです。[1][1] 

 

神は霊的な面だけでなく物質的な面でも祝福されますし、

過去の偉大な信仰者たちが驚くべきこの世の祝福の受益者であったことは事実です。

ヨブ、アブラハム、ダビデらの、その類まれな富と地位は神のおかげであると

聖書に記されています。

しかし、この神の偉人三人が耐えた類まれな試練や苦難を経験したいと思う人が

どれほどいるでしょうか。

また、貧しさ、特に現代なら貧しいと見なされる貧しさが

信仰者の共同体の間の常であった初代教会の人々よりも、

使徒行伝2章44-45節; ヤコブ2章5-7節, 5章1-6節参照)

今日の信者が霊的に優れていると正直に考えている人がいるでしょうか?

 

しかし、当時の比較的貧しい信徒たちの中の貧困に苦しむピリピの信徒たちは、

より裕福なコリントの信徒たちよりも優れた聖書の賛美を受けています

ピリピ4章10-19節第二コリント8章1節-9章5節を比較)。 

 

 ・・・・

  それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、

 強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、

 (この世から見て)有力な者を無力な者にするために、

 この世で身分の低い者や軽んじられている者、

 すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。

  それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。

                             第一コリント1章26-29節) 

 

 

これらの節に述べられている原則は、

個人的な富の問題にも等しく当てはまります。

相対的な繁栄は人生の状況であり、最終的には主の摂理とご配慮に左右されます。

物質的な富が、神がその人に与えておられる目的を達成することを可能にする限り

(例えば、贈与の賜物:ローマ12章8節)、

それは霊的な財産と見なされるかもしれません。

しかし、それが信仰者を神から遠ざけるようなものであれば

(富にはそのような傾向があります)、それは霊的に不利な点として

考えるのが正しいでしょう。

 

これが、主が「金持ちの若い支配者」に対して、

持っているものをすべて貧しい人々に与えなさいと命じられた真意です

                            (マタイ19章16-26節)。

キリストは、未来の弟子たち全員に、財産をすべて清算して

何も持たなくなれと言われたのではなく

(それでは神に仕える手段がなくなってしまいます:ルカ22章35-36節参照)

むしろ富を蓄えるのではなく、主により頼むようにと言われたのです。

マタイ6章19-24節; ヨブ31章24-28節; 詩篇49篇6節, 52篇7節, 62篇10節参照)。 

 

サタンがヨブについて言った非難めいた言葉、

「彼が持っているものすべてを打ちなさい。

 そうすれば、彼は面と向かってあなたを呪うでしょう」は、

普通に考えれば、全くの間違いだったことはヨブ1章11節)、

悪魔も分かったことでしょう。

というのも、私たちのほとんどを神から引き離す傾向があるのは繁栄であり、

苦難は正反対の効果をもたらすからです。

詩篇78篇34-35節 次の節も参照:申命記4章30節; ホセア5章15節

 

ヨブ、アブラハム、ダビデはみな、

神によってすでに富と権力を得ていたにもかかわらず、

並はずれて神を敬い、神とともに歩み続けたという点で例外的でした。

それゆえ、この三人がそれぞれ、私たちすべての模範として、

信仰の純粋さと神の憐れみの深さを示すために、

特別な試練を受けるよう求められたのは偶然ではありません。

ヘブル11章17-28節; ローマ15章4節参照)

 

物質的な繁栄に対するより多くの一般的な反応は、

それが神からの祝福であろうとなかろうと、神との関係をないがしろにし、

そのような富の存在が霊的な健康の表れであるという誤った思い込みをすることです。

繁栄に対するこのような人間の一般的な反応の結果は、

ラオデキヤの場合に見られるような自己満足です。

申命記8章10-20節; 31章20節, 32章15節; 箴言30章7-9節; イザヤ32章9-14節

エゼキエル28章2-5節; ホセア12章8節; アモス6章1-7節; ゼパニヤ1章12-13節) 

 

 「しかし彼らは食べて飽き、飽きて、

 その心が高ぶり、わたしを忘れた。」

                   (ホセア13章6節

 

私たちが意識的に、あるいは無意識のうちに、自分の繁栄を自分の手柄とし、

傲慢にも自分自身や自分の財産を最も重要なものと考え始めるとき、

私たちの目には神の存在は小さく映るようになります!

 

今のような物質的な幸福があっても、ラオディキアは千年王国ではありません。

そして、上に述べた教会の時代の流れを見れば、

私たちが今日享受している物質的な繁栄は、

私たち自身の努力によるものであるというよりも、

ヒラデルヒヤの時代から受け継がれている祝福の結果であることは明らかです。

(倹約家の両親から受け継いだ遺産を、浪費家の子供たちが享受しているようなものです)

 

私たちが、(私たちの「偉大な努力」「偉大な霊性」の結果として)

物質的にさらに大きな驚嘆の入り口に立っていると感じているすべての人々にとって、

ラオデキヤの時代が代わりに「吐き出され」、かつてない祝福の時代ではなく、

艱難時代へとまっすぐに預けられ、そこで自己満足が終わりを告げることを知ったときの

衝撃はいかばかりでしょうか。 

 

そういうわけですから、私たちは、現代の特徴である

この恐ろしい自己満足と戦う決意をしましょう。

神と御子を、私たちの心の中で、そして生活の中で第一に考えましょう。

もし私たちが、人生における他の何よりも神を尊ぶなら、

私たちは神を求め、神の真理を求めるようになるでしょう。

そうすれば、ぬるま湯に浸ることはなくなり、

神の評価において間違いなく「熱い」善い行いが、

私たちの霊的成長と共に、当然のこととして後からついてくるようになります。 

 

--89に続く 下差し

 

 

[1][1] 「悪魔の反乱」シリーズ第4部「サタンの世界システム」のI.2節をご覧ください。

さらに、イクシスのウェブサイトには、

このトピックに関する多くの電子メールによる回答が掲載されています

(リンク:過去の投稿を参照)。 

 

 

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(文字オーバーなのかな?投稿できず、これ以上書けませんでした)

 

 

 

 

 

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(2017年1月ももちゃん)

今日もありがとう~ラブラブ