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来たる艱難期<パート85>:黙示録の歴史 第二部-A:
ヒラデルヒヤの時代の後に続いた(相対的な)政治的安定、物質的繁栄、科学的進歩は、
機会という観点から見れば祝福であり、
それは個々のクリスチャンにかつてない可能性をもたらしました。
クリスチャンが全体的に、これほど多くの時間を持ち、
これほど多くの自由を得、これほど多くの霊的前進に必要なもの
(原語の聖典、教育の機会、書籍、パンフレット、
十分な訓練を受けた教師など、あらゆるもの)を
利用できた時代は他にありませんでした。
しかし、世俗の領域でしばしば起こるように、
「繁栄テスト」はほとんどの人間にとって難度の高いものであり、
主に従う者たちも免れることができるわけではありません。
しかるにエシュルンは肥え太って、足でけった。
[そう、]あなたは肥え太って、つややかになり、
自分を造った神を捨て、救の岩を侮った。
(宗教改革の多くの時期にそうであったように)迫害の時代には、
信者は真の優先順位を維持しやすくなります。
神と共に堅く立つことによってのみ救いがあり、
世俗の力に頼ることの愚かさが誰の目にも明らかになるからです。
このような<世俗の>勢力が沈静化し、(少なくとも教会に関する限り)
静穏さを増す世界、
すなわち科学と物質至上主義の宗教が徐々に影響力を増している世界では、
妥協が教会にもたらす利点は、少なくとも世俗的な観点から見ればとても明らかです。
他方、異-世界に焦点を当てていることは、
利権的物質的観点からも不利であることは明らかです。
クリスチャンの間でさえ、チャールズ・ホッジCharlesHodgeの教えよりも
チャールズ・ダーウィンCharlesDarwinの教えに親しむ人の方が多いというのも、
不思議なことではありません。
この二人は、霊的な観点から見ると、ラオデキヤの時代の始まりの象徴に当たる人物です[1]。
ホッジは、おそらく世界的に有名な最後の偉大な聖書志向の神学者であり、
霊的な手段によって、また神の条件に基づいて聖典から真理を探究するために、
言語学的、体系的、歴史的知識を応用した最高峰の人物です。
一方、ダーウィンは、神からも聖書からも離れ、
物質界から「答え」を経験的に探求するという、(真理とは呼べない)
まったく異なる観点を持つ哲学的影響をもたらしました。
前者は神のみに方向性を求め、後者は神の方向にはほとんど目を向けることなく、
人間と人間の科学的能力に方向性を求めました。
科学技術の時計の針を戻したいとは誰も思わないでしょうが、
ダーウィンの視点が台頭し、社会全体において
ホッジのアプローチが一般的に支持されなくなったこと
(つまり、あらゆる方面から科学への敬意が高まり、
それに伴って神の言葉から真理を求めることへの敬意が低下したこと)は、
この七つの教会時代の一般的な特徴に
少なからず寄与していると言ってよいでしょう。
先ほど述べたように、サルデスでさえ、「衣を汚さない人」がいたのに、
ラオデキヤでは、私たちのほとんどが、誇るべきでないこと
(物的世界での力量)を過度に誇る罪を犯しており、一般的に、教会のどの世代よりも、
主や聖書への関心が低いのです。
読者の皆さん、私たちの中にこの傾向に「逆らう」ことに熱心な者がいないとは言いません
(この言葉を書いたり読んだりすることが、
まさにそのような健全な態度の表れであることを期待したいものです)が、
それでも私たちは皆、この時代の子供なのですから、
私たちは皆、特に私たちに向けられた主の御言葉を心に留め、
この点について自分自身を吟味する必要があるのです
(詩篇139篇23-24節; 第二コリント13章5節; ガラテヤ6章4節)。
聖書を堅く守っている私たちは、現代世界の膨大な唯物論的知識に照らすと、
それがとんでもない、突飛な、まったく信じられない視点であるかのように、
常にその哲学的基盤からそのような立場を守るよう求められています。
しかし、聖典とその権威に対する攻撃は、
コリントの人々がパウロの霊感と権威を拒絶したのと同じように、
適切な価値観を覆すことで、しばしば「良家の者<正統派の仲間>」
(すなわち、妥当なもの)として受け入れられるのです。
(第二コリント11章20節; ヨハネ5章43節)。
また、コリントの人々が、自分たちを粗末に扱う人々に対してより敏感に反応したように
(第二コリント11章20節;パウロが不本意ながら厳しく対処した例を参照してください:
私たちの時代にも、ぬるま湯以上のものを求める人々が、
しばしば
(「奴隷にし、搾取し、利用し、押しつけ、顔を平手打ちする」ような:
超権威的な偽教師やカルトに引き込まれます。
この悲しい現状は、指導者と信者、「聖職者と信徒」の両方が失敗した結果です。
一般的に言えば、私たちラオデキヤの時代は、
ほとんどの場合、一般的なクリスチャンが教師や指導者の権威をそうすべきように
尊重しておらず、教師や指導者はそもそも彼らの尊敬に値していません。
この基本的方程式の両者が十分に条件を満たした例は、ほとんどありません。
すべての関係者に欠けているのは、
真のコミットメント、真の献身であり、
私たちが口々に人生で最も重要だと主張するもの、
すなわち主イエス・キリストとの関係のために犠牲を払い、
努力する真の意志なのです。
私たちの弁明として、
私たちの時代のクリスチャンの熱意という炎に対する悪魔の攻撃は、
信じられないほど巧妙かつ効果的であったと言うことができます。
敵は、私たちの存在、価値観、基準を直接攻撃するのではなく、
19世紀の初めから、あからさまな背教よりむしろ、
熱心な霊性と差し控えることのない信仰を徐々に萎縮させ、
気力を削ぐ策略をしてきたのです
(艱難時代の前半に実際に勃発する背教のための完璧な備えです)。
この戦術は、ラオデキヤ時代の人間生活と社会のあらゆる分野を通して
見つけることができます。
ダーウィニズムや科学的相対主義
(すなわち、どのような真理があるのかは物質的な領域に求めなければならない)
であれ、精神分析
(すなわち、問題解決の手段は神によるものではなく人間的なものによるもの)であれ、
聖書に対する学者たちの懐疑論
(すなわち、「高等批判」など)の高まりであれ[2]、
無数の「現代」社会の傾向は、
その実際的な影響として、信仰を減退させています。
そして、この攻撃には二面性があります。
私たちは、主要な科学者や学者たちから、私たちの信仰は見当違いであると
繰り返し言われ続けてきただけでなく、
私たちもまた科学や技術を神の真理の代用品として、提供する誘惑に駆られてきたからです。
理想を言えば、神を信じる私たちは、
個人的な糧と個人の務めを果たすために(聖別された方法でそうするならば)、
この世のメディアをあたかもその糧の手段であるかのように信頼することなく
(私たちが持っている真に良いものはすべて神から来ています:
現在手みじかにあるものは何でも利用することができるはずです。
しかし、主ではなく、この世のものに頼るようになるたびに、
私たちの信仰は損なわれていきます。
確かに科学的、物質的、技術的手段の発展、拡大、歓喜が、
私たちの集団的思考において、大いに評価されるようになったというのが現代の傾向なのです(この傾向に対して、信者は注意深く身を守る必要があります)。
科学技術の面では、これは特に医学の領域で顕著ですが、
サタンは、人間の潜在的な死への恐怖の鉄髄を強力に打ち込んできて、
身体的な問題が生じたときに、神を無視して癒しの術に頼ることを奨励し、
信者の信仰を鈍らせようとしています
(ヘブル2章15節; 出エジプト15章26節, 23章25節; 詩篇103篇3節, 107篇20節;
ホセア11章3節参照)。
学問の面では、聖書の真理に対する単純な信仰が腐食していることは、
19世紀後半から20世紀にかけて、
聖書を「学問的に」扱う傾向からはっきりと見て取ることができます。
原典批判、形式批判、再編集批判、考古学的修正主義、
聖書の正確さに対する科学的攻撃、「歴史的イエスの探求」、
福音書の真の「ケリグマ<信仰を引き出すために説いたイエスの本質的な知らせ>」を
<教育や指導などから>分離しようとする試み、脱神話化などなど、
これらはすべて、
言葉では聖書の「真理の探求」を言っていても、
実際のところは(聖書の真の力に対する嫉妬と傲慢さから)独りよがりで、
自己賛美的な偽物で、聖書を破壊することに専念しています。
聖書を教え、理解するために設立された偉大な学問機関が、
ほんの数世代のうちに、(そもそも聖書に対する関心がどの程度あるかは別として)
今や聖書に対する反論にしか関心を示さないという事態に至っているのです。
ラオデキヤが七つの教会時代の中で唯一、
(真の信者たちが完全に撤退を余儀なくされた「死んだ」サルデス以外には)
外的にも内的にも反対意見が述べられていない私たちの時代までに、
全体的に自己満足の澱(おり)が私たちの思考に徹底的に堆積してしまい、
少なくとも目に見える様々な教会組織の教えに関する限り、
もはや善悪の区別をつけることがほとんどできなくなってしまったことを意味しています。
その結果、
対立するグループが鋭い見解を表明する代わりに、
「熱くも冷たくもない」、ほぼ均質なグループの集合体(表面的な外見上のみの違いだけ)が
見られるという状況が生まれてしまっています。
この悪魔的な相対主義戦略の効果は明らかです。
真理に対する直接的な挑戦の代わりに、繁栄、怠惰、緩い基準、
神の言葉に対する無関心によってもたらされた信仰の妥協は、
私たちの時代の教会を(全体的に見れば)次第に、ほとんど無味乾燥で、
表面的で、むなしく、「生ぬるい」機関にしてしまったからです。
神の御言葉、イエス・キリストの御姿、御教えへの献身という点で、
この「耳障りのよい」キリスト教は、生演奏の偉大な交響曲の活力を、録音された
「エレベーター・ミュージック」のようなバックに流れる音楽へと
本質的に低下させてしまっています。
これと同じように、私たちの「キリスト教」は、
大切にされ、尊敬され、全神経を傾けるべきものではなく、
軽い娯楽のための、単なる無償の付随的なものになってしまっている場合が
あまりにも多いのです。
これに関連するエンターテインメントの部分について、
私たちは少し考えてみる必要があります。
すべての真剣な事業において、(表向きは注目を集めるために採用された)娯楽の要素が、
手段であると同時に目的になってしまうのは非常に容易に起こることです。
私たちの救いの神と御子の犠牲が、
それだけで私たちの注意を引くのに十分でないのなら、
何のための娯楽なのかと問われるかもしれません。
しかし、現代においてキリスト教と称されるものの多くに残されているのは、
愉快で楽しい気晴らしだけです。
ぬるま湯に浸かっているクリスチャンにとって、真の霊的な内容がほとんどない、
あるいはまったくない、楽しさいっぱいの礼拝は、
神に対する責任を楽しく「ベースカバー(責任を果たす)」してしまうための
完璧な方法のように思えます。
これは、キリストがこの聖句で私たちを非難している
「生ぬるい」の定義そのものに近いです。
信仰よりも科学、霊性よりも物質主義、内面的な現実よりも見栄え、
質、真の実体、犠牲よりも量、名声、享受など、
あらゆる面で「ぬるま湯」に浸るこの傾向は、
艱難時代の前半に予言されている「大背教」に、
私たちをより一層陥りやすくしてしまいます。
[1] 1878年に亡くなったホッジは、『組織神学』で最も有名ですが、
この神学書は、改革派の教えの最良の部分を注意深く組み合わせるとともに、
科学という新しい宗教に対する学術的な弁明を述べたものです。
『種の起源』で知られるダーウィンは、その数年後の1882年に亡くなりました。
オックスフォードの『キリスト教会辞典』
OxfordDictionary of the Christian Churchによれば、
彼は「次第に宗教の不可知論者となった」。
したがって、ダーウィンはラオデキヤのクリスチャンの典型であり、
迷い、揺れ動き、ついには懐疑と科学への信仰が神への信仰を消し去ってしまった
(らしい)のです。
この二人の中間に位置する人物として、F.デリッチュF. Delitzsch(1890年没)も
挙げられるでしょう。
デリッチュは、その著作が今日でも聖書の真理を追究する人々にとって
多大な価値を持つ偉大な人物ですが、(筆者に言わせれば、世俗に傾倒した息子の影響で)
老年になってから揺らぎ始め、最終的には旧約聖書の「現代的」本文批評を
信用するようになりました。
このように、彼の生涯は、「科学的証明」の影響の下で信仰が崩壊していく、
ヒラデルヒヤ改革派から「現代的」ラオデキヤ派への変遷モデルとして
見ることができます。
[2] 1871年頃のウェルハウゼンの著作が原典批判の始まりとされ、
1901年頃のグンケルが形式批判の始まりとされています。
--パート86に続く
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(2014年1月ムーちゃん)
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