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来たる艱難期<パート84>:黙示録の歴史 第二部-A
7. ラオディキア 「退化の時代」(1882年から2026年まで=144年間)
ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。
『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、
次のように言われる。
わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。
むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、
あなたを口から吐き出そう。
あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、
実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、
目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。
そこで、あなたに勧める。
富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、
また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。
また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。
すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。
だから、熱心になって悔い改めなさい。
見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。
だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、
わたしはその中にはいって彼と食を共にし、
彼もまたわたしと食を共にするであろう。
勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。
それはちょうど、わたしが勝利を得て
わたしの父と共にその御座についたのと同様である。
耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。
ラオデキヤは私たちの今の時代、
つまり悲しいかな、教会の退化の時代を表しています。
ここでまず注意しなければならないのは、
現在の堕落とサルデスの時代の堕落を区別することです。
というのも、私たちの現代に起こっていること
(現在の出来事にも、主が黙示録3章14-22節で示された預言的記述にも反映されていること)は、神に対する意志的な反逆というよりも、
霊的な萎縮と自己満足の拡大だからです。言い換えれば、
私たちラオデキヤのクリスチャンは、総体的に言えば、
主のたとえ話に出てくる弟によく似ています。
弟は、求められれば父の御心を実行しようと口先では熱意を示しますが、
実際には何もしませんでした(マタイ21章28-31節)。
このような自己満足は、私たちの時代、
つまり主の再臨前の教会の最後の時代の最大の特徴です。
そしてそれは、相対的な生活のしやすさと物質的な繁栄から生じる一般的な性格特性です。
聖書は、神が自己満足に寛容でないことを明確に述べています
(申命記8章10-20節, 31章20節, 32章15節; 詩篇123篇4節;
箴言1章22節; イザヤ32章9-14節; エゼキエル28章5節; ホセア13章6節;
アモス6章1-7節; ゼパニヤ1章12-13節参照)。
私たちが住むこの堕落後の世界で被造物が存在し続ける理由のすべては、
私たちが主のために選択をする機会を与えるためです。
このことによって、主は栄光をお受けになります[1][1]。
そして、主の最初の、彼らにとって最善の御心に反して、
主に背く者たちの場合でさえ、主は彼らを公平に扱われることによって、
栄光をお受けになるのです(詩篇51篇4節; ローマ3章4節)。
しかし、私たちの存在の中心的な問題、
すなわち神と御子に対する私たちの態度について、満足している者、
ぬるま湯に浸かっている者において、キリストがここで私たちに語っているように、
(特に、自分が神の民であると公言している者たちに対して)
主の忍耐には限りがあります。
ラオデキヤの私たちは、自分たちがすべてを持っていると思っていますが、
霊的な面では、以前の時代よりはるかに劣っているのです。
実際、私たちの時代は、
(七つのメッセージすべてに共通する「勝利を得る」者に与えられる最後の約束以外は)
主から何一つ肯定的なコメントを受けない唯一の時代なのです。
堕落の時代であるサルデスの場合でさえ、
「…その衣を汚さない人が、数人」いました。(黙示録3:4参照)
サルデスのような罪深い時代には、自分の意思で神に背くという風潮に反して、
神に従うことを選ぶ者がいたことは、疑う余地のないことでした。
しかし、ラオデキヤの時代には、神から離れようとする動きも、
神に向かおうとする動きもほとんどありません。
過去100年以上にわたって地上の教会に浸透してきた当たり障りのない自己満足は、
キリスト教に対する一般的なアプローチを生み出し、
あまりに中立的で、あまりにぬるま湯に浸かっているため、
思いっきり後退することも、心から受け入れることもほとんどありません。
別の言い方をすれば、
全体的に、現代の目に見える教会(その無数の姿や組織のすべて)は、
深みという点でも、確信の炎という点でも、霊的な熱情という点でも、
ほとんど何も持っていないのです。
キリストの言葉を借りれば、
「生ぬるい」教会であり、故意に不品行であるわけでも、
キリストに仕えることに深く献身しているわけでもありません。
上に引用したたとえ話の弟のように、私たちは口だけ達者で、
本当に主に従い、主に仕えるとなると、本質的に鈍重なのです。
改革者たちの前の時代、ヒラデルヒヤの時代は、
これまで指摘してきたように完全ではありませんでしたが、
ねじれや傷を持ちながらも、彼らの「わずかな力」はキリストの称賛を得るには
十分<な働きをしたの>であり、来るべき「大いなる試練の時」、
艱難時代(黙示録3章10節)から彼らを救い出すことを保証するものでした。
対照的に、私たちの時代が、運命にある、
この急速に近づいている恐ろしい時に終わるだけでなく、
「地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の」
<黙示録3章10節参照>
ラオデキヤが前の五つの時代の半分の年数にも満たされずに
切り捨てられた形で終わるのは、まさに私たち全体が練磨される必要があるためです[1][2] 。
ヒラデルヒヤの人々は「忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守った」のです。
ラオデキヤの私たちは、臆病な恐れや傲慢な反抗からではなく、
むしろ、便利さ、快適さ、自己満足から、概して灰色の妥協に流れてしまいました。
これは、ほとんどすべての教会や教会組織に見られます。
真剣な祈りと個人の聖化、イエス・キリストへの献身的忠誠、
とりわけ信徒も聖職者も問わずに神の御言葉の真剣な学習は、
年を追うごとに希薄になっています。
一般的に言って、クリスチャンに、私たちの主、主の御言葉、
そして私たちの人生に対する主の御心を追い求めるための、
より多くの資源、より多くの時間、より多くの機会、
より多くの自由がかつてないほど与えられている時代に、
私たちが集団として、この世のむなしい追求を優先して、
その最良の部分を脇に置く罪を犯しているというのは皮肉なことではないでしょうか
(ルカ10章38-42節参照)。
それこそ「生ぬるい」の極みです。
つまり、神に口先だけの奉仕をし、真の弟子訓練をする代わりに、
楽しく、興味深く、面白いかもしれない単なる気晴らしに過ぎない
「クリスチャン活動」に没頭することによって、
真の霊性を構成し、真の霊的成長に寄与すると私たちが心の中で知っている努力を
避けているのです。
さらに悪いことに、私たちはこのような態度を正当化する傾向があります。
あたかも、私たちに与えられた時間、資源、機会の膨大な浪費が、
私たちの「善意」(ガラテヤ1章10節)によって正当化され、
神をも説得できるかのように思うのです。
このようなクリスチャン生活に対する、私たちの欠陥のある態度を自己正当化する傾向は、
私たちの時代のために選ばれた名前「ラオデキヤ」の語源に見ることができます。
「ラオデキヤ」は、その語源からすると「人々」と「正義」を意味する
二つのギリシャ語の形態素<形態素:単語の最小単位>の複合語であり、
「[自己]正当化する群衆」と訳すことができます。
この意味とニコライ派(「民衆が征服する」)の意味との間には微妙な違いがあります。
現代においては、私たちクリスチャンが、神を求める
(求めるという言葉が正しいかどうかさえわかりませんが)
ことに非常に無頓着な態度を持っていて、自分たちがどうあるべきか、
何をなすべきかという自分で造り上げた低い基準に安住していることが問題なのです。
エンターテイメントに重点を置くメガ・チャーチや、
耳障りの良い「全ての人のための-キリスト教」的アプローチ、
そして真理を犠牲にしてまで包括を追及する(真理の「攻撃的性質」を取り除く、
と言ってもいいかもしれません:ガラテヤ5章11節参照)
全体的な「相対主義的」哲学は、この生ぬるい傾向の徴候です。
このような風潮は、この後の時代において、
宗教的な炎や熱意がほとんど唯一見い出せるのはカルトや異端の発信するものだけ
(それゆえ「真の知識によるものではない」ので実のないもの:ローマ10章2節参照)
という事態に至らせてしまいました。
霊的無関心(生ぬるさ)の対応する相対主義は、
ラオデキヤの時代に早くも教会に伝染し始めました。
キリスト教の真理に対するこのような哲学とアプローチの方法が、
薄っぺらな思考をもたらすようになったことは、一目瞭然です。
さらに悩ましいことは、イエス・キリストと私たちの関係は、
聖書に含まれる真理の凝縮された力を離れては、
決して深く純粋で燃えるようなものにはなり得ないという事実です。
聖書の教えを無視したり、その重要性を少しでも低下させたりすることは、
イエス・キリストとの緊密な関係のダイナミックな可能性を無視することであり、
その結果、霊的生活におけるあらゆるもの、
特に私たち一人ひとりが召されている個々の務めに支障をきたすのは決まりきったことです。
[1][1] 「悪魔の反乱」シリーズ第3部「人間の目的、創造と堕落」のI.3節の
「神の栄光のために創造された人間」をご覧ください。
[1][2] 七つの教会に関するこのセクションの序論を参照。
--パート85に続く
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今日は昨日の夜から久しぶりのまとまった雨
だけど、今日は三男さんの誕生日なので、青空の写真
おめでとう~
四男さんから、パスタソースコレクションが届きました
パスタが好きなこと知ってるからね
本当は一緒に食事に行きたいところだけど
お休みのタイミングが合えばいいね
そんな三男さんが、私の誕生日でもないのに
ドーナツをおみやげに持ってきてくれました
私がドーナツ好きだけど、ずっと食べていないの知ってたのね
ありがとう~
それから、新潟の兄から手作り沢庵が送られてきた
地震の影響で、私が何か送らないと・・・と思っていた矢先に・・・
ありがたい・・・美味しかったです
(2013年1月みゅうちゃん)
お返しは、
三男さんが大好きだったみゅうちゃんの写真をプレゼント
いつもありがとう、みんなありがとう
今日もありがとう~