(ひとしずく・82来たる来たる艱難期:黙示録の歴史 第二部-A)黙示録3章8節~11節 | sarah‐mercy

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来たる艱難期<パート82>:黙示録の歴史 第二部-A

 

                                           ロバート・D・ルギンビル博士著(ichthys.com)より

 

キリストの特別なメッセージ: 

 

黙示録3章8節

1. 「わたしは、あなたのわざを知っている。

 見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。」

 

 開かれた扉とは、霊的な機会を意味します

使徒行伝14章27節; 第一コリント16章9節参照)

この機会の扉は主ご自身によって錠が開けられ、開かれたものであるため、

ヒラデルヒヤが自らを切り離した強力な目に見える教会によって制限されることのない、

本物のものなのです。

真に神に捧げられた反組織を通して、神を求める明確な道を提供し、

あらゆる反対を押し切って耐え忍び、組織的かつ体系的な方法で主の真理を追求し、

それを世界中に伝えてきたことは<プロテスタントの業績のことですね>

ヒラデルヒヤの四世紀にわたる主要な特徴であり、

世間からは認められなかったかもしれませんが、

彼らが献身していた主によって知られていた業績、あるいは「わざ」なのです。 

 

黙示録3章8節後半,9節

 

2. 「なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、

  わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。 

  見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、

 その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。

 見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、

 そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。」

 

 私たちは完全ではないかもしれないし、神が与えてくださる資源をすべて活用し、

適用することはできないかもしれません。

私たちは「小さな力」しか持っておらず、備えていないかもしれませんが、

神の御手の中では、その小さな種が、

からし種のように巨大な木に成長することができるのです。

彼らの欠点が何であったにしろ、ヒラデルヒヤ時代の信徒たちは、

人が人生で行うことのできる最も重要な投資を行いました。

彼らは、時間、エネルギー、賜物、そして物質的な資源を、

イエス・キリストの追求と奉仕のために蒔いたのです。

この最も慎重な投資のために、彼らは主によって認められたのです。

なぜなら、彼らの行いは「知られている」からです。

つまり、それらは主によって受け入れられ、永遠に存続するのです。

 

これらの信者たちによってもたらされた「小さな力」は、

個人的な霊的成長「あなたがたは、わたしのことばに耳を傾けた」

-神のことばを知り、信じ、生きる過程が、すべての霊的成長の基礎を形成するからです)と、主のための奉仕と宣教「あなたがたは、わたしの名を否定しなかった」

-ことばと行いによって、キリスト教的生活、キリスト教的証し、

キリスト教的奉仕によって、主について証しし、主のために証しすることは、

私たちを買い取ってくださった方の名を完全に認めることだからです)

に向けられるのです。 

 

彼らの献身と奉仕の結果として、

(偽りの)「唯一の真の教会」であると主張する人々からの反対と圧力にもかかわらず、

主はヒラデルヒヤの人々に対して、そのような人々のうちの何人かがやがて来て、

(彼らは偽りの教会を代表しており、彼らが主張するように、

 真の教会を代表しているわけではないので、

 ここでは「サタンの会堂」と表現されています)

ヒラデルヒヤの部隊の中にこそ、

神の好意、神の教会が真に存在することを認めるようになると約束されています。

 

目に見える教会の信者たちは、「ユダヤ人であると主張している」

(つまり、真の神の民であると主張している)のですが、

(自分たちにも神にも)嘘をついているのです。

 

ヒラデルヒヤの時代の始まりから終わりまでの間、

その古い、霊的に死んだ組織で始まりながら、真に神のものであるのは誰かを見て

理解するようになり、真の悔い改めて、

最初の改革者たちとその信奉者たちがそうであったように、偽りのものを捨て、

真のものを掴み取るようになった人々が、実に着実に存在してきました。

この人達はその功績を認められ、永遠の益を受けることでしょう。

軽んじられ、追放されたヒラデルヒヤの人々にとって、

<こうした人達が現れてきたことは>最大の励ましであり、

彼らが神の愛の内に生きていることの最大の証拠となりました

「わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう」。 

 

ここで引用されている「ユダヤ人」についてはしばしば誤って伝えられているので、

この主題について取り上げて論じる必要があるでしょう。

この箇所を書いた人(使徒ヨハネ)はユダヤ人であり、

ここで引用しているのはメシア、つまり人間性においてユダヤ人である神-人の言葉です。

黙示録の後半では、イスラエルの高貴な地位は否定できません

(7章と14章に登場するイスラエルからの14万4千人、

  12部族の門を持つ新しいエルサレムを参照: 黙示録21章12節)。

 

このように、ユダヤ人であることは黙示録において決定的に優位なことであり、

この点は聖書全般においてはっきりと言えることですローマ3章1-2節参照)

そして、この箇所もそう言っているのです。

この「サタンの会堂」は、ユダヤ人であると主張しているだけであって、

彼らは嘘をついており、実際にはユダヤ人ではないのです。

したがって、この文脈の否定的な意味合いからすると、

改革者たちの時代において神の民であると偽っていた、

霊的に死んだ偽りの教会に完全に当てはまります。

したがって、この箇所には反ユダヤ的な意味はまったくなく、

そのような意味は、重大かつ故意の間違った解釈によってのみ導き出されるものです。 

 

宗教改革の時代の始まりにおける、死んだ組織化された教会を

「ユダヤ人ではないのにユダヤ人であると主張する人々」と特定することは、

示唆に富むものです。

その最初の衰退の時代から、異教的な形態を想起させる多くの特徴に加えて、

堕落した教会には古代イスラエルを意図的に模倣したものも多く見られたからです。

神殿(カテドラル)、いけにえ(秘跡)、エポデ(法衣)

支配権を持つ大祭司(教皇)、モーセの律法の律法主義的解釈(教会法canon law)

什分の一などは、この組織に「新しいイスラエル」の役割を担わせようとする

意図的で明らかな試みのほんの一部にすぎません。

このような傾向は明らかに、そのような身分表明を通して(擬似的な)

権威を得ようとする試みでありますが、神は誰が真に神のものであるか、

誰が真に「神のイスラエル」ガラテヤ6章16節であるかを知っておられます[1][1] 

 

黙示録3章10節:

3. 「忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、

 わたしも、地上に住む者たちをためすために、

 全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。 」

 

ここでまず注目すべき点は、この約束はすでに成就しているということです。

ヒラデルヒヤの時代は過ぎ去り、ヒラデルヒヤに仕えていた

すべての偉大な信者たちも過ぎ去りました。

彼らは「忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守った」

つまり、生涯にわたって主への信仰と忠実を続けるようにとの

主の「言葉」に従った人々です。

彼らは、個人としても集団としても、大艱難期を経験せずに済みました。

ヒラデルヒヤ時代の信徒たちは、困難で費用のかかる離別、

それに続く長期にわたる迫害、そして真に神を求め神に仕える

目に見える教会を再建するという試練など、多くのことを耐え忍んだのです。

 

彼らは、教師を養成するための真の意味で効果的な教育的・学術的共同体を

発展させるという挑戦や、聖書的に正しい方法で神への熱意を国内外に表現し、

開拓するという挑戦にも立ち向かいました。

彼らは「地下牢、火、剣」にもかかわらず信仰を貫き、

ヒラデルヒヤの晩年に続いた世俗的な信仰の試練にも耐え、

ヒラデルヒヤの最後の世紀を支配した、(ダーウィン的な現れとして最も顕著)

唯物論的な無神論という癌に蝕まれることもなく、

最後まで神を信じ、神の聖典に信頼することを好んだのです。

何度も試練を受け、すべての試練を乗り越えたヒラデルヒヤは、

主の再臨の前に人類に降りかかる運命にある最後の、最も恐ろしい試練、

すなわち艱難期から解放されるという安堵で祝福されています。 [1][2]

 

この祝福において、ヒラデルヒヤは、私たち自身の時代であるラオデキヤとは対照的です。

ラオデキヤは、それまでのすべての試練において自らを欺いてきたため、

教会の歴史の中で最も厳しい試練に直面することを余儀なくされることになります。

この試練は無視することも、軽視することもできず、

これにおいてすべての信者の信仰の真の価が露わになるのです。 

 

黙示録3章11節:

4. 「わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、

 自分の持っているものを堅く守っていなさい。 」

 

 神の見解からすれば、「千年は一日の如し」詩篇90篇4節; 第二ペテロ3章3-10節

であることから、主の再臨は(それに先立つどの出来事も)遠いことではありません。

第二に、人間の一生という非常に短いスパンから見れば、

現在と私たちの主との祝福された(個人的な)再会までの期間は、

ほんの一瞬のものでしかありません

(この視点は、信者が決して見失うことの許されないものです)

最後に、ヒラデルヒヤは一時の休息が約束されていますが、

今日の私たちにとっては、これは本当に完全に差し迫った現実です。

そして、これこそが、ヒラデルヒヤ時代の信者が、

いや、すべての信者が、この箇所から得るべき最大の要点です。

 

この研究の第一部で見たように「来たる艱難第一部」第V章、黙示録1章3節参照)、

終わりの時が差し迫っているという原則は、

聖書、特に黙示録において重要かつ繰り返し語られるテーマです。

(ヒラデルヒヤを救い出すという約束や、

 七つの教会へのメッセージに示されている教会時代の全体像のような)

他のあらゆる時系列的な情報にもかかわらず、「終末」は差し迫っているのです。

 

なぜなら、(この節で指摘されている)「終わりの時が差し迫っている」という原則は、

私たちの主が十字架で勝利されて以来

(人間の弱い論理でそれを矛盾と感じるかどうかは別として)

にはこれらの出来事をいつでも実行に移す権利があることを意味するからです。

従って、私たち信者は常にこれらの出来事に備えていなければならないのです。 

 

上に取り上げた第二の文章については、「自分の持っているもの」とは、

ヒラデルヒヤの人々が個人的にも集団的にも行った霊的成長と宣教の進歩を意味し、

「堅く守っていなさい」とは、

そもそもこの進歩をもたらした善行を忍耐強く続けることを意味します。

これは痛烈な言葉です。

 

というのも、主の言葉の明確な意味は、過去の業績

(ヒラデルヒヤの人々のような例外的な業績であっても)にかかわらず、

クリスチャンがその栄誉に満足していてよい時期はないということだからです。

私たちがこのぶどう園にいる限り、

それは主がある目的のために私たちをここに残してくださったからです。

普遍的な言葉で言えば、その目的には常に、継続した、

かつ継続している聖化(罪と悪からの分離)

霊的成長(真理のすべての良い適用、御言葉の学びと生活、祈りなどに基づく)

そして主に仕えること(主が与えてくださる恩恵に従って、

私たちの賜物を用いて、ミニストリーをもって働くこと)が含まれます。

これらすべての面で前進し続けることによってのみ、

私たちは後戻りしないことが保証されヘブル2章1節)、

そうすることによってのみ、「自分の持っているもの(成し遂げたこと)

結果と報酬「堅く守る」ことが保証されるのです。 

 

このように、前進することこそ、クリスチャン生活における唯一の

真に安全なアプローチであり、この世でイエス・キリストに忠実に従った

すべての人に約束された報いである「冠を失う」ことがないようにする

唯一の方法なのです。

 

霊的に成熟したすべての信者は、少なくとも一つの冠、

「義の冠」第二テモテ4章8節を得ることができます。

霊的な前進と成長が成熟に達し、その成長を実証するような模範的な人生を試練において

確認されるなら、「いのちの冠」が約束されヤコブ1章12節)、

最高の賞は「栄光の冠」であり、個人的な務めの召しを(それが何であれ)

主に受け入れられるような形で果たす人のために用意されています

第一ペテロ5章1-4節[1][3]

 

クリスチャン生活において忠実なすべての人が、

少なくとも一つの冠を受けるということは、確かに良い知らせです。

しかし、この聖句はまた、私たちが「堅く守る」ことを怠り、

主が示し、私たちに歩むように命じられた道を忍耐強く歩む努力を怠るなら、

その冠(そして、そのような冠に伴うすべてのもの)を失う可能性があることを

はっきりと思い起こさせるものでもあるのです

 

この特別な警告が教会の七つの時代の中で、

彼らの集団行動が最も高く評価されていたヒラデルヒヤの信者に向けられたものである以上、

これは特に真実です。 

 

 

[1][1] より詳細な議論については、悪魔の反逆シリーズ第5部「審判、回復、取り替え」の II.8.b.i項「イスラエルの独自性」をご覧ください。 

[1][2] いわゆる「艱難前携挙」を支持するためのこの箇所の誤用については、

 ペテロの手紙#27「信仰を脅かす3つの誤った教理」を参照。 

[1][3] 王冠の教理は、ペテロの手紙の#18「永遠の報い」と、

 このシリーズの第6部I.7項「教会の裁きと報い」で取り上げられています。 

 

--パート83に続く 下差し

 

 

 

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全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう

約束されているイエス様の御言葉を感謝します

そのためには、

自分の持っているもの(信じているもの)

堅く守っている必要があることも忘れてはならないですね

 

 

 まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。

人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。
 

 すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、

霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。
 

わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。

たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。

(ガラテヤ6:7-9)

 

感謝します

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(2017年1月ももちゃん)

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