からの続きです
来たる艱難期<パート81>:黙示録の歴史 第二部-A:
キリストによる御自分についての記述:
1. 「聖なる者、まことなる者」<黙示録3章7節>:
「聖なる」と「まことなる<真実な-新改訳Ⅳ>」という言葉は、
どちらも聖別という問題を語っています。
「聖なる」あるいは「聖人のような」という最初の言葉は、聖化の質、
すなわち、すべての不敬虔なものから離れ、
罪と悪から完全に分離することを体現しています
(主に従う者は皆、そのように召されています:ヘブル12章14節)[1][1]
私たちの主がここでご自分を表現するために用いた二番目の言葉は
「まことなる<真実な>」であり、
英語でもギリシャ語でも名詞「真理」の形容詞的対格です。
真理は、すべての偽り、すべての嘘からの分離を伴います。
ヒラデルヒヤは、当時の腐敗した教会から距離を置くことによって、
道徳的、霊的な腐敗から離れ(すなわち、「聖なる」存在となり)、
教会を支配するようになった偽りの教義に対抗して真理に立つ
(すなわち、「真実な」存在となる)という聖霊の促しに応えたのです。
このように、私たちの主イエス・キリストは、
ご自分とご自身の性格を表すのにこの二つの言葉を用いて、
ヒラデルヒヤが当時の罪深く偽りの伝統的な教会から分離するためにとった
困難な道と同一視され、それを承認しておられるのです。
主は真理であられるので、私たちも真理を語らなければなりません
主は聖なる方ですから、私たちも聖なる者とならなければなりません
2.「ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、
閉じればだれにも開かれることのない者」<黙示録3章7節>:
今日と同じように、古代世界においても、鍵は出入りや立ち入る権限を意味しました。
ここで言及されているのは、地上において推し進められている
天の王国における行動の機会についてです。
(マタイ16章19節; 参照:イザヤ22章22節; ヨハネ10章3節)。
神の権威なくして、神の力なくして、神の許可とアクセスなくして、
神の国のために何一つできる者はいません
(イザヤ26章12節; ゼカリヤ4章6節; ヨハネ15章4節)。
私たちが「神のために」することはすべて、
イエス・キリストにある時代のご計画に従って、神の御霊の力によって、
神が与えてくださった賜物によってのみ行うことができます。
しかしそのような許可がある場合、主の力とその権威に反抗して
立ち向かえるものはありません。
神が施錠された錠は誰にも開けられず、神が開かれた錠は誰にも閉められません。
ヒラデルヒヤの信者に与えられた霊的前進と神への奉仕の機会は、
メシヤ、すなわちダビデの大いなる御子からもたらされたものであり、
その御子は世の救い主として、
御子に従うすべての人に永遠の救いの門を「開かれた」のです。
この文脈でのこの記述は、ヒラデルヒヤの信者が、何世紀にもわたって
唯一の教会組織であったところから「締め出された」にもかかわらず、
個人的な成長と主との交わり、そして主への奉仕の機会は、
すべて主の支配下にあることを示すものです。
以前の交わりから排除されたことで非難の念に悩まされているよりも、
この言葉から大きな慰めを受けるべきだったのです。
なぜなら彼らは神のみ心を行う力のうちに<御心を行うように>
組み入れられていたからです。
神なしに、誰が立つことができるでしょうか。
しかし神は、神に従うすべての者を堅く立たせることがおできになるのです
(ローマ14章4節)。
[1][1] ペテロの手紙シリーズ#13「聖化」をご覧ください。
--パート82に続く
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他人の僕(しもべ)をさばくあなたは、
いったい、何者であるか。
彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。
しかし、彼は立つようになる。
主は彼を立たせることができるからである。
(ローマ14:4)
感謝します
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聖書を読んでいるクリスチャンでも「来たる艱難期」なんて、
読みたくもないと思うかもしれない
また現実的に、大きな災害や大きな試練、厳しい状況などを見たり聞いたりすると
本当に胸が痛むし、絶望的になったり、恐れたりするかもしれないけど
そんな時こそ、クリスチャンは打ちひしがれてしまうのではなく、
主の御心を行えるように、備えている必要があるように思います
あれこれ落ち込んでる時間があるなら、
たとえ直接助けることが出来ないとしても、何もできないとしても
すぐ身近にいる人に対してでもいいので、主の御心を行えたらいいと思うのです
自分の祝福のためではなく、主の御心に生きるために
どんな小さなことでもあるはずです
例えば、自分の持っている恵みに、どんな些細なことでも、今日を感謝することも
それが御心なら、主の助けは必ずあるはずです
これからの時代、ますます、艱難期を覚悟していないクリスチャンは
落胆してしまうことばかりになりますね
だからこそ、御言葉の約束を握って
主の御心の上に、立っていられるようにと
私自身にも、これを読んで下さっている方のためにも
お祈りします
寝てるみゅうちゃん
立つとこんなに伸びるにゃよ~ (2015年1月)
今日もありがとう~