(ひとしずく・55来たる艱難期:黙示録の歴史 第二部-A)~スミルナ・迫害の時代~  | sarah‐mercy

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からの続きです

 

来たる艱難期<パート55>:黙示録の歴史 第二部-A: 

 

2.スミルナ:「迫害の時代」(82年~442年=360年) 

黙示録2章8-11節 

 

 (8) スミルナにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。

 『初めであり、終りである者、死んだことはあるが生き返った者が、

  次のように言われる。 

 (9)  わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている

 (しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)

 また、ユダヤ人と自称してはいるが、

 その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちに

 そしられていることも、わたしは知っている。

 (10)あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。

  見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。

  あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。

  死に至るまで忠実であれ。

  そうすれば、いのちの冠を与えよう。 

 (11)耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。

  勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない』。

                             (黙示録2章8-11節) 

 

スミルナとは、ギリシア語で「没薬」を意味します。

つまり、香を焚いたり、防腐処理に使われる樹脂状の芳香物質

(南アラビアのある樹木のガムから得られる)のことです[1]

没薬は高価な物質であり

(イエスの誕生の際にt東方の博士から贈られたもののひとつマタイ2章11節)、

ここでは、教会の第二の時代に多くの信者を襲った迫害と殉教を語っています。

 

私たちの主のために究極的な犠牲を払うよう求められて、主のために死んだ人々は、

没薬の香り(香の例え)によって特徴づけられる死を遂げました。

彼らの殉教は(迫害者たちがどう思おうと)神に受け入れられ、

適切な埋葬(遺体の実際の地上での処置がどうであれ、

 天における甘い香りを象徴)によって特徴づけられたことは、

スミルナという名前が「没薬」であることにも示されています。

 

あらゆる時代の信徒にとって、もし私たちが主のために迫害や命を失うことに耐えるよう

主から求められることがあれば、そのような犠牲も主の目には尊いものであり、

キリストの苦しみを共有するよう召されたすべての人に与えられる報いのしるしとして、

神の御座の前で最も高価な香水の甘い香りを漂わせるものであると確信できます

第一ペテロ4章12-19節詩篇116篇15節マタイ16章24-25節

 ローマ8章17節第二コリント1章5節ピリピ3章10節コロサイ1章24節参照)。 

 

名前だけでなく、死に打ち勝つ永遠のいのちというテーマは、

スミルナへのメッセージのあらゆる部分に表れています。

キリストは御自身を死んで生き返った方」と表現し、

スミルナの信徒たちはに至るまで忠実であるようにと言われ、

耐え続けた報いは約束された命の冠です。

最後に、勝利した者は第二のによって傷つくことはありません。

 

イエス・キリストに真に従う人の、物質的な死を克服する永遠の命に焦点を合わせるのは、

第二教会時代の人々にとってはとても重要なものでした。

スミルナの時代はローマ国家による教会への激しい迫害の時代だったからです。

殉教という究極の方法で自分たちの信仰を示すよう求められたスミルナの信者たちは

見事に応え、教会のこの時代は多くの意味で最も素晴らしい時代の一つでした。

 

「良い天気の」とき、クリスチャンになるのは簡単です

(というより、むしろ「より簡単」です)。

しかし、教会第二の時代の信者たちは、中傷、排斥、個人的な苦難と貧困、投獄、

そして殉教にさえ耐えました。

しかし、彼らは信仰を持ち続け、持ち続けただけでなく、霊的な前進を続け、

私たちの主のために大きな成果を生み出しました(後述する「いのちの冠」の意味)

間違いなく、この世で信仰を持ち続けることは簡単なことではありませんし、

ましてや積極的な霊的前進を続けることも、

私たちがそれぞれ召されているミニストリーの完全な機能を発揮することもできません。

 

しかし、スミルナ世代の信仰者たちが直面した悪条件、

すなわち、資源の不足、激しい反対、敵意、投獄、

さらには、自分たちが信じていることを実践したために死の危険さえあった状況下で、

これらすべてのことを成し遂げることは、(正直に認めるなら)

ほとんどの私たちがおそらく通過することができない試練です。 

 

実際、スミルナの信徒たちは、この試練に立ち向かい、一連の試練に合格しました。

主が言われた「十日間」とは、スミルナの360年の時代に起こった

10の明確な迫害の期間のことです(後記参照)

そして、これらの迫害は時間的に見ると、

スミルナに割り当てられていた期間中に起こっており、

信徒たちが(いわゆるエペソ時代の失敗である)自己満足に陥るような余裕は

ありませんでした。

そうではなく、スミルナの信者たちには、警戒を怠らないか、

次の迫害の波が襲ってきたときに信仰が難破する危険を冒すか、

二つの選択肢しかなかったのです。

フィラデルフィヤと並んで、

主からのメッセージの中で叱責や裁きの警告を受けなかった唯一の教会時代が

スミルナであるという事実は、この高貴な信者たちが正しい選択をし、

彼らに委ねられた期間を通してその選択をし続けたことの明らかな証拠です。 

 

スミルナの経験から得られる一つの原則は、

イエス・キリストの福音におけるすべての良い進展は、

悪とその地上の手先からの反対に遭遇することになるということです。

私たちの多くにとって(私たち全員ではありませんが)

国家が主催する迫害の可能性は少なく思えますが、この原則は今日においても変わりません。

 

悪魔は、イエス・キリストに真に近づき、

彼らに託された賜物を用いてイエス・キリストに正しく仕えようと努力している

すべての人に反対する他の方法をたくさん持っています。

というのも、最も熱心な信者

(スミルナの時代に、私たちの主を放棄することなく死に向かった、

 試練に満ちた真のクリスチャンたちのように)ほど、

個人的に最も激しい苦難を経験することが多いからです

(このメッセージの中で、キリストが「苦難」という言葉を二度使っていることに

 注目してください。)

この見解は、旧約聖書と新約聖書の傑出した人物を概観するだけでも

容易に裏付けることができます。

したがって、いわゆる「繁栄の福音」には嘘があります。

アブラハムやダビデのような例外的な信仰者が

神から特筆すべき物質的な富を受けた場合でさえ、彼らの人生においては、

私たちの誰もが望まないような激しい試練によっても特徴づけられていたことに、

私たちはすぐに気づくはずです。 

 

最後に、聖書の節そのものの考察に移る前に、スミルナ世代の初期人口は、

大雑把に言って、エペソ世代、あるいは使徒世代の子供や孫であることを指摘しておきます。(皮肉なことに、自分の子供たちへの配慮からと言うことになっていますが)

荒野の試練に失敗した出エジプト世代の信者と、ヨシュアの指導の下、

約束の地に入る信仰を持った彼らに続く世代との比較が描かれています

民数記14章27-35節参照)。

エペソは御言葉に従わなかったのですが、スミルナは聖句と霊的成長を

何よりも優先させるということに取り組み、

その並外れた忠実さが引き起こした厳しい迫害にもかかわらず、持ちこたえたのです。 

 


[1] A.C. Gaebelein, The Revelation, p.35f; et vid. lexica. 

 

 --パート56に続く 下差し

 

 


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わたしは主を愛する。

主はわが声と、わが願いとを聞かれたからである。
 主はわたしに耳を傾けられたので、

わたしは生きるかぎり主を呼びまつるであろう。
 死の綱がわたしを取り巻き、陰府の苦しみがわたしを捕えた。

 

わたしは悩みと悲しみにあった。
 その時わたしは主のみ名を呼んだ。

「主よ、どうぞわたしをお救いください」と。
 主は恵みふかく、正しくいらせられ、われらの神はあわれみに富まれる。

 

 主は無学な者を守られる。

わたしが低くされたとき、主はわたしを救われた。

                (詩篇116:1-6)

 

感謝します

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昨日は姉から、ご近所から頂いた柿とリンゴのお裾分けを

更にお裾分けで送られてきた

他にも食品が入っていたので夕食はそれでまかない、デザートまであったので

「私の兄姉は優しいね」と呟いたら

長女さんが「私の兄も優しいよ」と、三男さんが長女さんの為に買ってきてくれた

ドライフルーツを食べた

すると三男さんが「お母さんも優しいからだよ」と、珍しいことを言った

(実は数日前、ちょっとした口喧嘩・”セッション”したばかりだから、気を使ってるのか?(笑)

 

今日も感謝の一日をハートお願い

 

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(2020年10月ももちゃん)

今日もありがとう~ラブラブ