からの続きです
来たる艱難期<パート54>:黙示録の歴史 第二部-A:
キリストがエペソに約束された報い
1. 「…勝利を得る者には、
神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べること[の権利]をゆるそう」。
(黙示録 2章7節)
報酬が与えられるのは「勝利を勝ち取る」者にという制限は、
主から教会の七つの時代それぞれに向けられた七つのメッセージすべてに共通する特徴です。「勝利を勝ち取る者」という言葉は、
実はギリシャ語の属性分詞(動詞ニカオnikao-νικάω- 私たちの「ナイキNike」の語源)で、
文字通り、「勝利する者/勝利を得た」を意味します。
この七つの例はすべて、信仰を保ってこの世の坩堝(るつぼ)から
出てきたすべての信仰者を指しています:
なぜなら、すべて神から生れた者は、
そして、わたしたちの[キリストにおける]信仰こそ、
世に勝たしめた勝利(nike-νίκη)の力である。
キリストへの信仰を維持し、キリストに忠実に仕え、
キリストを信じながら忠実に生涯を終える者だけが、ここで言われている勝利者なのです[1]。
世と肉と悪魔は、真の信仰を溺れさせ、キリストへの真の信仰を消し去り、
イエスに従って回心したすべての人々の「信仰の芽」を焼き尽くし、
窒息死させようと、力のかぎり本気になって常に挑んでいます
(マタイ13章1-9節,13章18-23節; マルコ4章1-9節, 4章13-20節;
しかし、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ10章22節)、
これは真にイエスに属するすべての人の本質的な勝利です。
また、七つの教会すべてに対してこの資格が繰り返されていることは、
各時代の下で論じられている救いの様々な報いが、
七つの時代の最後まで信仰のうちに耐え忍ぶすべての信者に等しく与えられ、
等しく適用されることを明らかにしています。[2]
ここで述べられている、信仰を保って人生を耐え忍んだエペソの人々に対する
特別な報いについては、まず、エペソへのメッセージの冒頭で、私たちの主が、
「これは、右の手に七つの星(すなわち教会)を
支配しておられる方が言われることであり、
七つの金のランプ台の真中を歩む方が言われることである」と述べて、
ご自分の権威を強調することにされたことを思い出すべきです。
キリストの完全かつ全く正当な権威を認めて応じるということは、(これまで見てきたように)エペソへのメッセージの内容においても最も重要なことであり、
その時代の信者たちは、キリストによって霊的歩みを再活性化するよう求められていたのです。最後に、信仰を耐え忍ぶ者への報酬の約束の中で、
キリストは「神の楽園にある命の木から食べる権利」を保証しています。
こうして、究極のエデン、新エルサレムの第七の、
そして最後の楽園において、信じる人類は再び、
その崇高な体験が伴うすべての祝福とともに、
「いのちの木」にあずかる権利を所有することになるのです[3]。
この特別な約束は、現世でイエス・キリストに従うこと、
すなわち信仰と誠実さのうちに(1世紀の信徒たちが再召命されていた霊的成長を含む)
忍耐することは、人生の喜びや楽しみを失うことを意味しないということを、
エペソ時代の信徒たちに(私たちにも)思い出させる重要なものでした。
というのも、永遠において、私たちが「神の楽園で」主とともに経験し、
「いのちの木」そのものから食べる喜びは、
この一時的な人生のすべての一過性の喜びを決定的にかすませてしまうものだからです。
復活した主の型にならって約束された完全な永遠の体をもって永遠に生きることは、
間違いなく幸福を奪われたものではありません。
むしろ、祝福され、正当で、聖別された、
今では想像もできないような驚異を楽しむものとなるのです。
キリストが私たち一人一人に課された十字架を背負うために、
現世では自分を否定しなければならないかもしれませんが、
来るべきその驚くべき時には、新しいエルサレムの栄光に比べるなら、
このはかない地上で経験できるどんなものも、
取るに足らないものとなってしまうことを覚え、信じていくのです。
その栄光の最も素晴らしいものは、私たちが愛するイエス・
キリストと顔と顔を合わせるという体験です。
わたしは思う。
今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、
言うに足りない。
エペソ時代の教会を考察した結果、最後に導き出された結論があります:
(聖書に書かれていることに頼るのではなく)信仰と実践の権威を初代教会<の形態に>
に求める者は、ヨハネの時代とその直後の、
いわゆる「使徒時代の教父」と呼ばれる世代においてさえ、
聖書とその教えに本来払うべきほど注意を払っていなかったことを
私たちの主がここで直接語っていることを考慮すべきです。
パウロ、ペテロ、ヨハネのような人たちが去った後、
彼らの前進は止まり、御言葉(彼らの「はじめの愛」)において
成長し続けることができませんでした。
その結果として(わずか12年後には)彼らの「燭台」は、
時期尚早に取り去られてしまいました。
良い形態にはしがみつくが、最初にそしていつも教会を活気づかせたもの
(すなわち、書かれた御言葉を通して生ける御言葉に注目すること)を
第一の焦点とするのを棄ててしまった超-伝統主義を通して、
このような使徒後の決まったやり方を模倣することは、
ラオデキア時代である私たちに起こっていることの典型でもあります。
聖書は、私たちの信仰と実践の唯一の源でなければならず、
私たちの主ご自身がこの点での欠陥を指摘されているように、
使徒行伝後の世代(あるいは、他のどの世代のもの)の伝統でもあってはなりません。
私たちが成長し続け、効果的に主に仕えることができるのは、
主の御言葉にひたすら忠実であることによってのみです。
それによっていのちの木への道が豊かに供給されるからです。
悪しき者のはかりごとに歩まず、
罪びとの道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、
その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
[1] 特に、「ペテロの手紙#27: 信仰を脅かす三つの偽りの教理」にある、
いわゆる「永遠の保障」に関する議論を参照のこと。
[2] ジェームズ・ロスカップ(Dr. James Rosscup)博士の
「黙示録の克服者(The Overcomer of the Apocalypse)」
『グレース神学ジャーナル(GraceTheological Journal)』3:2(1982年秋号)261-86参照。
[3] 新エルサレムに存在する「いのちの木」については、
本シリーズの第6部で取り上げている。
エデンの園における最初の「いのちの木」については、
サタンの反乱シリーズ第3部「人間の目的、創造と堕落」の第IV節以降を参照。
「七つのエデン」については、『悪魔の反逆』シリーズ第1部「サタンの反逆と堕落」のII.6節を参照。
--パート55に続く
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またあなたがたは、
わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
(マタイ10:22)
感謝します
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イエス様の名ゆえに、憎まれる日があっても
それでもイエス様を拒否することは、私のアイデンティティを捨てると同じ
自分が自分でなくなるなんて、考えられない
それでも私たちは弱い人間
どうか、最後まで耐え忍ぶ信仰と希望と愛を
持ち続けることができますように
お祈りします
昨日、ウォーキングしていたら気持ちよく澄んだ秋の空に黒い雲・・・
あれ?誰か何か燃やしてる?
近づけば近づくほど、もくもくと黒煙が立ち上っている
火事でした
乾燥していたり、ストーブを点けたりする季節
十分気をつけましょうね
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朝は冷えてきたね
猫ちゃん、暖かい場所を見つけたの?
風邪ひかないようにね
今日もありがとう~