からの続きです
来たる艱難期<パート53>:黙示録の歴史 第二部-A:
7.「もしそうしないなら」:
霊的成長のプロセスを再活性化することに失敗した場合の結果は、
主によってはっきりと明示されています。
その罰として、エペソ時代の信者は、彼らの(教会時代の象徴である)「燭台」が
即座に取り去られるのを経験することになります。
御言葉の中で日々成長することに挑戦することに消極的であり続けることは、
「おとずれの日」をいっそう速めることになるでしょう(またそうでした)。
というのも、
初期の教会の戦闘員であるはずの教会員にとって、本来なら「最重要の愛」であるはずの、
書かれた御言葉と生きている御言葉、切り離すことのできない
イエス・キリストの御姿と御教えについて、
生ぬるい態度をとり続けるということほど悲惨なことはないからです。
この問題に対する信者たちの強情さのために、
エペソ時代は(わずか12年後に)突然停止し、神は次の時代であるスミルナの時代を
試練と特徴づけることになる一連の迫害によって、
1世紀の信仰者たちを霊的無気力から目覚めさせることになります。
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、
父がすべてこれをとりのぞき、
実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、
手入れしてこれをきれいになさるのである。
この箇所は、主ご自身の言葉ですが、状況を完全に明らかにしています。
キリストにある信者が進む道は一つです。
すなわち、霊的生活の継続的な成長と、
それから生み出されるものの中を歩んでいくことです。
父なる神は、このような姿勢とアプローチで「働かれ」、
私たちを刈り込み、剪定し、私たちが日々よりよく行えるように助けてくださいます。
しかし、エペソのケースに見られるような霊的な後退の必然的な結果である実の欠如は、
(この教会時代の最初の時代に実際にそうであったように)
取りのぞかれるという結末を迎えることになるのです。
8. 「あなたはニコライ宗の人々のわざを憎んでおり、あたしもそれを憎んでいる」:
上で説明したように、「ニコライ宗の人々」とは、
キリスト教のふりをしながら、実際には私たちの主イエス・キリストの
真の信者ではなかった偽教師とその信者のグループのことです。
彼らの名前「征服者」(「征服」は動詞のニカオnikao-νικάωからきており、
「者(人々)」は単語ラオスlaos-λαόςからです)の語源は重要です。
というのも、
聖書の教えよりも「多数決」を優先させるという、
偽の使徒や偽信者たちの信条(ラテン語の「vox populi, vox dei」、
すなわち「民衆の言うことは神の権威である」)は、
聖書の教えに無頓着になっていた人々には反論しにくいようにうまく仕組まれていたからです。
しかし、エペソ時代の信徒たちは、その短い在任期間中に、
このアプローチに抵抗し、拒絶しました。
聖書に対する彼らの無頓着な態度によって、ニコライ派とその偽の使徒指導者たちに
教理的に反論することは困難なことでしたが、
そのような倒錯した教理から流れ出る行いを正しく評価し、拒絶することによって、
彼らの偽りの教え(「あなたがたは(彼らの)行いを憎んでいる」)
に迎合することを防いでいたからです。
主が喜んでおられるのは、
エペソ時代の信者たちがニコライ人そのものを憎むことではなく、
ニコライ人の行いを憎むことであることに注意しなければなりません。
結局のところ、私たちはキリストにある兄弟だけでなく、
例外なく全人類を愛するように命じられています
(マタイ5章43-47節,22章37-40節; 第一コリント13章1-13節; 第一ヨハネ2章7-12節)、
すなわち、イエス・キリストにある救いによって、
すべての人が神と和解することを切に願うことです。
(そして可能な限り、それを促進すること)
(エゼキエル18章23節;マタイ18章14節;ヨハネ12章47節;
第一テモテ2章4節;第二テモテ2章24-26節; 第二ペテロ3章9節)
しかし、ここで注意しなければならないのは、逆もまた真であるということです。
私たちは、主の模範に倣って、
悪を行う者たちの悪の行いや悪行を憎むべきなのは確かです。
この二つの態度(神が造られたすべての人に対する愛と、
神の完全な意志に反するすべての行為に対する憎しみ)は
まったく矛盾するものではないので、混同してはいけません。
クリスチャンが悪人を憎むことは明らかに間違っていますが、
「クリスチャンは常に愛するべきである」という口実で
間違った行動や悪行を正当化することも、明らかに間違っているからです。
結局のところ、私たちは自分の子供たちを愛しながら、
同時に子供たちの危険な行動を(罰するまでもなく)憎むことができます。
では、不道徳な行為、違法行為、不法行為、
あるいはその他の忌まわしい行為に関与している未信者の場合は、
なおさらそうではないでしょうか。
反神的な行為に嫌悪感を抱くあまり、
私たちが全人類に向けるよう命じられている普遍的な愛が損なわれてしまわないように
注意しなければならないのと同様に、
私たちもまた、この純粋で義務的なクリスチャンの愛の態度が、
あらゆる悪、憎むべき行為、罪深い行為に対する私たちの断固とした態度を鈍らせ、
和らげることのないように苦心しなければならないのです。
エペソ時代の信徒たちは、前者に基づいて非難されることなく、
後者の配慮に基づいて賞賛されていますが、
私たちは皆、どちらにおいても非難されることのないよう目指すべきです。
--パート54に続く
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
日々のデボーションの為には【休息と癒し】のサイトに毎日掲載されている
過去記事の「ひとしずく」も、どうぞお役立てくださることをおすすめします
はじめての方へ | 休息と癒し (kyusokutoiyashi.jp)
「ダーク・トゥ・ライト」https://darktolight.jp
私達が主の御声を聞くことにおいても成長できますように。
また、ご意見、ご感想、またオーディオクラスに関心のある方などは、 shizuku365@proton.me までご連絡ください。
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..
イエスは大声で言われた、
「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、
わたしをつかわされたかたを信じるのであり、
また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。
わたしは光としてこの世にきた。
それは、わたしを信じる者が、
やみのうちにとどまらないようになるためである。
たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、
わたしはその人をさばかない。
わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、
この世を救うためである。
(ヨハネ12:44-47)
感謝します
*:..。o○☆゚・:,。*
昨日は台風かと思うほど、午後から強い風が吹きました
夏の終わりにぐんと伸び始めた皇帝ダリアが倒れそうなほど揺れて
結わえてあった紐が切れてしまったほどです
長女さんがしっかり結わえ直してくれたのでもう安心
前よりも、真っすぐ立ちました
昨日は夏が戻ったかと思うほど暑くなったのに
朝方気温がぐっと下がり、私は鼻水が・・・
皆さんも体調管理にお気をつけくださいね
お祈りしています
ホトトギスが一斉に咲き始めたよ
金木犀が散り始めて、黄色い絨毯を敷き始めたよ
*:..。o○☆゚・:,。*
(2016年10月ももちゃん)
今日もありがとう~