(ひとしずく・ペテロの手紙#9B「信仰とキリストの血」) | sarah‐mercy

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からの続きです

 

「信仰とキリストの血」 

 

 ペテロの手紙#9後半 ~ロバート・D・ルギンビル博士著 ~

          

ですから、(私たちの心と意志による単純な行為であって、功績などはまったくなく)

イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、

イエス・キリストと彼が私たちに代わって死んで下さったこと、

その結果、父なる神に受け入れられるということを受け入れるのです。

 

ですから第一ペテロ1章2節 「イエス・キリストの血への従順のために..選ばれた(英訳)

という表現は、キリストが私たちの罪を負われた十字架上の御業を

私たちの側が受け入れることを指しているのですイザヤ53章1-12節)。

また、「イエス・キリストの血の注ぎのために...選ばれた 」という表現は、

私たちが信じたときに受ける罪の赦しを指しています。

 

神がすべての人に求める従順とは、何よりもまず、

御子イエス・キリストを信じ、彼が自分たちのために捧げた犠牲を受け入れることです。

注ぎ(贖いによる罪の赦し)は、この聖句では信仰と一つに結びついています。

キリストを信じる信仰がなければ、罪の赦しはありませんが、

キリストを信じる信仰があれば、罪の赦しは直ちにもたらされるのです。 

 

私たちは将来、贖い(キリストの、罪に対しての十字架上の御業:

キリストは私たちを罪の奴隷状態から救い出してくださった)

和解(キリストの、人間に対しての十字架上の御業:

キリストは私たちを神の敵から神の友へと変えてくださった)

そして贖罪(キリストの、父なる神に対しての十字架上の御業:

キリストの犠牲は神に受け入れられ、人類のすべての罪を永遠に贖った)

教義を検討する機会があるでしょう。

しかし、ここ、2節でペテロが用いた「血をそそぐ」という言葉に含まれる「描写」について、一言述べておく必要があります。 

 

血を振りかける:

振りかけられた血の象徴は、旧約聖書、特に神がご自身について教えるために

イスラエルの民の間で制定した儀式から取られています。

モーセは「契約の書」出エジプト記20-23章に要約されているモーセの律法)

読み終えると、「平和の供え物」のいけにえを捧げさせ、その血をすべて集めさせました。

そしてモーセは、「見よ、契約の血である」と言って、

この血をすべての民に振りかけたのです。

この血は、(旧約聖書のすべてのいけにえに見られるように)暴力による死を表し、

「契約の血」という言葉は、誰かの死によってイスラエルの民が

神と特別な契約を結んだことを意味していました。

 

この事実は、モーセが動物のいけにえの血をすべての民に文字通り振りかけたときに、

目に見える形で劇的に描き出されました。

これは、私たちにとってはグロテスクでショッキングなことのように思えるかもしれませんが、そうなるように意図されていたのです。

キリストの十字架上の犠牲は、私たちの想像を絶するほどの犠牲でした。

私たちはキリストを助けるために何もせず、

ただその血潮を「かけられた」だけです。

私たちは、キリストを信じ、私たちに代わってなされたキリストの業を受け入れるとき、

キリストの犠牲の死の恩恵を受けるのです。 

 

キリストの血:

一方、「キリストの血」は象徴に過ぎず、文字通りの血ではありません。

モーセは来るべきメシアの苦しみと犠牲を表すために文字通りの血を用いましたが、

主イエス・キリストは十字架にかかり、私たちの罪のために死んで下さることによって、

あなたと私に救いを与えてくださいました。

この業を終えると、息を吐き、息を引き取られましたルカ23章46節)。

実際、失血死したわけではありませんヨハネ19章33-35節)。

 

私たちの罪のために身代わりに裁かれた

キリストの犠牲と苦しみに注意を向けることが重要であり、

その苦しみと犠牲を予見している旧約聖書の象徴に注意を向けることはではありません。

 

ですから、聖書が私たちは「キリストの血によって」救われると言うとき、

(ヨハネが福音書の19章で説明しているように)

それはキリストが私たちのために捧げた素晴らしい犠牲、

つまり私たちの身代わりとなって十字架上で死なれたことを指しているのであって、

キリストの文字どおりの肉体的な血を指しているのではないのです。 

 

要約:

ペテロの最初の文章は、私たちが神の家族に選ばれたこと(選民)についての

三つの観点から説明しています: 

 

御父が私たちの救いを備えられます(予知)。 

 

御霊が私たちの救いの実際の業を引き受けてくださいます(聖化)。 

 

御子はその代価を払ってくださる方であり(贖い)

 私たちが救いのために信じる方です(キリストへの信仰)。 

 

私たちの人生に対する神のご計画の第一段階(救い)についてのこの三部構成の略図は、

すべての信仰者に対する神のご計画の第二段階

(時という次元の中の信仰者、神のご計画の段階についての考察はレッスン#3を参照)

にも当てはまります: 

 

・御父のご計画は、私たちを時間的に支えてくださり、 

 

・イエス・キリストの御業は、私たちが罪を告白するとき、

 私たちの罪を清め続けてくださり、 

 

・聖霊は私たちの霊的成長を助けて下さいます。 

 

これらのことについては、次回のレッスンで詳しく説明します。 

 

[ペテロ#10:霊的成長入門] へ。 

 

 

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 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、

神の子なのである。
 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、

皆キリストを着たのである。
もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、

奴隷も自由人もなく、男も女もない。

あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。

(ガラテヤ3:26-28)

 

感謝します

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子供の時、テレビで放送していた「ベン・ハー」という映画を、何故か父と観ていた

ベン・ハーは、長い間、復讐心だけを生きる糧とした人生から、

イエス様が十字架に向かう姿を見て、赦しという癒しを受ける

最後のシーンで、

イエス様が十字架にかけられて、地に滴り落ちた血が

流れて、雨と共に地面を這うように流れて、流れて・・・

ベンハーが、皮膚病で人里離れた洞にいた家族を十字架のイエス様に会いに行かせると

その流れてきた血に、(イエスを信じるという信仰がその人の罪を赦しで洗われ)

癒される場面があった

 

その時は、細かいことは何も分からなかった私も、

そして父も

「イエス様って、凄い方なんだなぁ」って言葉に出したことを

今でも思い出します

 

 

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(2016年10月ももちゃん) ツワブキ、今年も伸びてきたよ

今日もありがとう~ラブラブ