(ひとしずく・ 長い暗夜にある祝福について)十字架の聖ヨハネによる「暗夜」から | sarah‐mercy

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  長い暗夜にある祝福について

 

以下は、十字架の聖ヨハネによる「暗夜」からの抜粋です。

「暗夜」における祝福の数々について:

 

 この夜が霊魂にもたらす益について

1.   

霊魂にとって幸運であるこの夜と欲求からの浄化は、

霊魂に多くの善と利益をもたらすものであるから(もっとも、前に述べたとおり、

霊魂にはかえってそれらが奪われるかのように思われるにしても)

アブラハムが、その子イサクの離乳の日に、大祝宴を催したと同じように

(創世記21章8節)、天においては、神がこの霊魂を産着から取り出され、

腕から降ろして自分の足で歩かせ、乳や、柔らかくて甘い幼児食の代わりに、

固い皮のついたパンを食べさせたこと、

そして、その霊魂が頑丈な人の食物を味わい始めたことが喜ばれている。

事実、この食物は、感覚のこれらの暗闇と無味乾燥の中で、

感覚の甘い汁から空虚となり乾いている霊に与えられ始めるのであって、

これが、すなわち、前に述べた、注賦的観想なのである。

 

2.  

 これが、観想のこの乾ききった夜がもたらす第一の、そして主要な利益である。

それは、自分自身と自分の惨めさについての認識である。

というのも、神が霊魂に与えられるすべての恩恵の他に

(通常、神はそれらをこの認識の中に包んで与えられる)

以前感じていた豊さに対する諸能力の、これらの無味乾燥と空虚、

そして、霊魂が善行の実行に際して見出す困難は、

すべてがうまくいっていた時期には気づかなかった自分の惨めさと、

卑しさとのを霊魂に認識させるからである。

 

これについては、出エジプト33章5節の中に、よい例がある。

すなわち、神は、イスラエルの子らをへりくだらせ、

彼らに自分をわきまえさせることを望まれ、彼らが今まで普通、

砂漠の中で着ていた祭りの日の衣服と装飾とを取り去って脱ぎ捨てることを命じられた。

神は、「今からは、祭りの日の晴れ着を脱ぎ、日常の仕事着を身に着けよ。

それは、お前たちが、自分にふさわしい待遇をわきまえ知るためである」と言われた。

これはすなわち、

「お前たちが着ている着物は、祭りと喜びの日の着物であるから、

自分たちが本来どれほど卑しいものであるかをお前たちに悟らせない。

だから、その着物を脱いでしまえ。

それは、これから先、自分が卑しい服を身に着けているのを見ることによって、

それ以上のものを着るのは、自分にはふさわしくないこと、

自分は何者であるのかということがわかるためである」

と言われたようなものである。

 

 これによって霊魂は、前には知らなかった自分の真実の惨めさを知るようになる。

というのも、神の中に多くの味わい、慰め、支えを見出して、

晴れ着を着て歩いたころは、自分はいくらかなりと、神に奉仕しているような気がして、

大いに満足し、喜んでいたからである

(というのも、そのときは、それをはっきりと自覚しているのではないが、

 少なくとも味わいのうちに見出す満足感が、

 いくらかこういう考えを起こさせるからである)

 

ところが今、無味乾燥と「よるべなさ」の仕事着を着、初めの光が闇になると、

霊魂は、自己認識というこの極めて優れた、必要不可欠の徳のうちに、

これらの光をより真実に、より豊かにもつようになる。

霊魂はもはや、自分を何者とも思わず、自分に対して決して満足感を覚えることもない。

なぜならば、自分からは何もしないし、

また、何もすることができないことがわかるからである。

 

 霊魂が前もっていた当初の味わいや、行っていたすべての業、

たといそれらがどんなにたくさんあったとしても、

神は、それらよりも、霊魂が抱いている自分自身に対する不満足と、

自分は神に奉仕していないのだと思う悲しみのほうを、

すべてに超えて高く評価し、尊重される。

あのような業や味わいにおいては、霊魂は、

多くの無知と不完全にこの多くの機会を与えたのである。

この乾燥の着物からは、すでに述べたものだけではなく、これから述べる多くの利益も、

そして、述べきれずにおかれるその他多くの利益も生じてくる。

それは、その泉、本源として、自己認識から湧き出てくるからである。

 

3.   

その第一には、神との交わりに際して、霊魂は、もっと慎み深くなり、

もっと礼儀正しくなる。

これは、至高の御者との交わりには常になくてはならないものである。

ところが、霊魂が味わいと慰めに満たされていたときには、これは無かった。

なぜなら、霊魂が感じたあの快い味わいは、欲求をして、

神に関して必要以上に大胆にさせ、慎みも謙遜も無くさせたからである。

 

これはちょうど、モーセに起こったことで(出エジプト3章2~6節)

神が、自分に話かけられたことを感じた時、

彼は、あの味わいや欲求に目がくらんでいたので、もし、神が彼に、立ち止まって、

履物を脱ぐように命じなかったならば、彼は何の思慮もなく、

あえて神に近づいたことであろう。

 

これによって、神との交わりには欲求を脱ぎ去って

敬意と慎みとをもって臨まなければならないことが示されている。

モーセは、この命令に服したとき、大変思慮分別のある者になったのである。

それで、聖書によると、彼はあえて近づこうとしなかったばかりではなく、

目を挙げることさえしなかったのである。

なぜなら、それは、欲求と味わいの履物を脱ぎ捨てることによって、

神のみ前で自分の惨めさを深く悟ったからであって、

これこそ、神のみことばを聞くのに、ふさわしいことだった。

 

 これと同様に、神はヨブにも、彼と話しをするために準備をさせられたが、

それは、ヨブ自身が言っているような、彼が神のうちに見いだすのを常としていた

喜悦や光栄のうちにではなく(ヨブ記1章1~8節)

かえって、彼を芥の中で裸にし、捨てられた状態にし、

更には友人たちからは迫害され、苦悩と悲痛に満たされ、

地は蛆だらけになっているというありさまの中でであった(ヨブ記29~30章)

「貧しい者を芥の中から上げられる」(詩篇113篇七節)

至高の神は、こうしたさなかに、低く下られ、顔と顔を合わせて彼と語られ、

彼に御自身の英知の測りしれない崇高さを顕されるという仕方で、

自らを示されたが、そのようなことは、

彼が隆盛であったときには決してなかったであろうことであった(ヨブ記38~42章)

 

4.

ここで、この夜と感覚的欲求の無味乾燥の中にある他の優れた益についても

述べるべきであろう。

というのは、私たちはその利益に出会ったからで、それはすなわち

「あなたの光は闇の中に輝き昇る」(イザヤ58章10節)との

預言者の言葉が実現するためであるが)、この欲求の暗夜において、

神は霊魂を照らされるであろう、ということである。

 

それは、前に述べたように、単に霊魂に自分自身の惨めさ、

卑しさについての認識を与えることによってだけでなく、

神の偉大さと崇高さについての知識をも与えることによってでる。

なぜなら、それは、感覚的な欲求や味わいや支えが消えてなくなってしまうと、

理性は純潔に、また自由になって、真理を悟るにふさわしくなるからである。

 

感覚的な味わいや欲求は、たとい、それが霊的なことに関するものであっても、

霊をくらませてこれを妨げるからであり、それにひきかえ、

感覚の無味乾燥と動きの取れない状態は、イザヤが言っているとおり

(イザヤ書28章19節)、更に、理性を照らし活発にするからである。

この困惑によって、神は次のことをわからせてくださる。

 

すなわち、空虚で障害の除かれた霊魂の中において

—神的作用には、この空虚であることと、障害の除かれた状態であることが要求される--

神はどのようにして、観想のこの暗く無味乾燥の夜を通して、超自然的に、

前に述べたように、霊魂を神的英知の内におしえて導いてゆかれるか、

ということをわからせてくださるのである。

このようなことは、最初のことの甘い汁や味わいによってはわからせてくださらなかった。

 

 

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最も暗い夜の闇のすぐ後には

最も美しい夜明けが待っているんだね

そして、雨上がりの朝の光はいっそう美しいキラキラ

 

 

飢えている人に心を配り

苦しめられている人の願いを満たすなら

あなたの光は、闇の中に輝き出で

あなたを包む闇は、真昼のようになる。

(イザヤ58:10)

 

感謝します

 

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長女さんが玄関前の金木犀の木を剪定してくれたので

随分すっきりして光も入ってきます(全体の三分の二の枝を伐ったので後処理も大変)

まだ椿の木が2本残っていて裏には平垣も・・終わるころには紫陽花の剪定が待ってる

庭の手入れは大変だけど、庭からの恩恵はその何倍もありますね

 

気候が不順で草花も、作物も大変だと思うけど

お祈りしていますハート

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日もありがとう~ラブラブ