~友人からのメール~
「恐れを打ち砕く信仰」 パート2
(2020年5月27日聖書クラス)
聖書にも、信仰がないために恐れに打ち勝つことができなかった残念な話があります。
それはエジプトでの奴隷生活から解放されたイスラエルの民が、
神が約束して下さった地を前にした時の場面です。
その約束の地カナンを偵察するためにイスラエル12部族の中から一人づつ
偵察隊が選ばれましたが、その偵察隊の報告が次の通りです。
民数記の13章を読んでみましょう。
彼らはモーセに言った、
「わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。
そこはまことに乳と蜜の流れている地です。
これはそのくだものです。
しかし、その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、
わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。
またネゲブの地には、アマレクびとが住み、
山地にはヘテびと、エブスびと、アモリびとが住み、
海べとヨルダンの岸べには、カナンびとが住んでいます」。
そのとき、カレブはモーセの前で、民をしずめて言った、
「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。
しかし、彼とともにのぼって行った人々は言った、
「わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。
彼らはわたしたちよりも強いからです」。
そして彼らはその探った地のことを、イスラエルの人々に悪く言いふらして言った、
「わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。
またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。
わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。
わたしたちには自分が、いなごのように思われ、
また彼らにも、そう見えたに違いありません」。
(民数記13章27~33節)
神が約束された地は、やはり素晴らしい場所でした。
しかし、そこには障害物がありました。
何とネピリム、巨人がいたのです。
自分たちがいなごのように見えるほどの巨人が。
そして偵察に出かけた12人のうち、カレブとヨシュアを除いて皆、
巨人の脅威におびえてしまったわけです。
これでは我々はとても敵わない、滅ぼされてしまうだけだと。
彼らは恐れによって、不可能を可能にする神への信仰を見失っていました。
彼らは信仰によってではなく、恐れによって支配されてしまったのです。
そして、その彼らの不信仰でネガティブな言葉と恐れの霊は、
それを聞いていた民衆たちに伝染させてしまいました。
続きを読んでみましょう。
そこで、会衆はみな声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。
またイスラエルの人々はみなモーセとアロンにむかってつぶやき、全会衆は彼らに言った、
「ああ、わたしたちはエジプトの国で死んでいたらよかったのに。
この荒野で死んでいたらよかったのに。
なにゆえ、主はわたしたちをこの地に連れてきて、つるぎに倒れさせ、
またわたしたちの妻子をえじきとされるのであろうか。
エジプトに帰る方が、むしろ良いではないか」。
彼らは互に言った、
「わたしたちはひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」。
(民数記14章1~4節)
民衆は絶望して、エジプトに帰ろうと言っています。
巨人と戦い、その餌食になるくらいならエジプトでの奴隷生活の方がまだましだと。
神が祝福を与えようとされているのに、彼らには障害物しか目に入りませんでした。
これが不信仰の態度です。しかし、信仰の態度は違います。
カレブとヨシュアの言葉を見てみましょう。
このとき、その地を探った者のうちのヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブは、
その衣服を裂き、イスラエルの人々の全会衆に言った、
「わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。
もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、
それをわたしたちにくださるでしょう。
それは乳と蜜の流れている地です。
ただ、主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。
彼らはわたしたちの食い物にすぎません。
彼らを守る者は取り除かれます。
主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」。
ところが会衆はみな石で彼らを撃ち殺そうとした。
(民数記14章6~10節)
「神が良しとされるなら、神が導き、この地を下さる」
「神が共におられるから恐れてはならない」、
これが信仰の態度です。
しかし、残念ながら民衆はすでに不信仰と恐れに支配されてしまっていたので、
ヨシュアとカレブの信仰の言葉によって励まされることはありませんでした。
それどころか彼らの信仰は自分たちを危険にさらすものと見なし、
彼らを殺そうとまでしたのです。
巨人なんかと戦えるはずがないじゃないか、我々を殺す気かと。
彼らはそれまで自分たちに注がれていた神の愛、神の奇跡、
そして全能の神が共にいてくださっていることを完全に忘れていました。
絶対に無理だという凝り固まった考えを捨てることができませんでした。
そして、その結果彼らは巨人との戦いからは免れることができましたが、
それから約40年の間荒野をさ迷うことになり、ヨシュアとカレブを除いて、
その時20歳以上の者、神に逆らった者は
約束の地に入ることはできなくなってしまったのでした。
わたしの栄光と、わたしがエジプトと荒野で行ったしるしを見ながら、
このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞きしたがわなかった人々はひとりも、
わたしがかつて彼らの先祖たちに与えると誓った地を見ないであろう。
またわたしを侮った人々も、それを見ないであろう。
ただし、わたしのしもべカレブは違った心をもっていて、
わたしに完全に従ったので、わたしは彼が行ってきた地に彼を導き入れるであろう。
彼の子孫はそれを所有するにいたるであろう。
(民数記14章22~24節)
あなたがたのうち、わたしにむかってつぶやいた者、
すなわち、すべて数えられた二十歳以上の者はみな倒れるであろう。
エフンネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、
わたしがかつて、あなたがたを住まわせようと、手をあげて誓った地に、
はいることができないであろう。
(民数記14章29、30節)
不信仰によって彼らが逃した祝福は何と大きなものだったことでしょう。
ここに来るまでの間、彼らは数々の神の奇跡を目にし、神が自分たちを守ってくださり、
良くして下さることを経験によって知っていたはずです。
もし、その神に目を留め続けていたなら、これまで自分たちを導いてくださった神は、
この先も同じように導いてくれるはずだという信仰が持てたと思います。
しかし、彼らは神から目を離してしまったのです。
神から目を離すとどうなりますか。
困難とそれに対する不安と恐れしか残らないですよね。
神がせっかくここまで導いて下さり、イスラエルの民に約束の地を
与えて祝福しようとされているのに、彼らは恩を仇で返すような
侮辱的な態度を神にぶつけたのです。
結局彼らは自ら、祝福を遠ざけ、神の怒りをかってしまうことになったのでした。
問題は状況ではなく、彼らが恐れに駆られ神から目を離してしまったことです。
この時のイスラエルの民衆の不信仰、カレブとヨシュアの信仰、
彼らそれぞれの態度と結果から、私たちは貴重な教訓を学ぶことができると思います。
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小さな事では似たようなことが日常でも起こりますね
目の前に立ちふさがる壁を見て、到底不可能!と恐れてしまうのです
そしてその恐れは自分だけではおさまらず、周りの人にも伝染させてしまう
その結果、どんなにポジティブな励ましを受けても、聞く耳どころかその声が煩く感じ
その先にある用意されていたはずの祝福を信じることが出来ずに
ついに逃してしまうことが・・・
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先日四男さんが来た時にこんな会話がありました
「足、大丈夫?凄く心配したんだよ!」
「うん、大丈夫だよ。骨はやがてくっつくし、日にち薬だよ」
「呑気だなぁ~!
ケガした本人が一番心配していなかったみたいだね?
こっちは全身麻酔でもう意識が戻らなくなったらどうしようとか
手術が終わっても歩けなくなったらどうしようとか、色々心配したんだよ?」
「ありがとうね、みんなの祈りの内にいたから心配なかったんだよ」
ヨシュアとカレブのような強い信仰ではないけど
御言葉の約束や、祈りの力を感じるとマイナス要素が消えていくのが
よく分かりました
私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。
私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、
神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
(第二コリント10:3~4)
感謝します
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今日は夏至ですね
(写真はお借りしました)
今日もありがとう~
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こちらで全文読めますよ~
http://www.kyusokutoiyashi.com/publication/ainomonogatari/「愛の物語」絵本
http://www.kyusokutoiyashi.com/publication/kurisumasunoai/「クリスマスの愛」絵本
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