”私は在る”に至るまでの軌跡
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「私は在る」という感覚について

 こんにちは。無名です。


 最近ブログの更新はしてませんでしたが、アメブロのアクセス解析を見ると、「私は在る」というキーワードで検索されている事が多く見受けられました。


 ブログのタイトルで「”私は在る”に至るまでの軌跡」など書いてますが、正直これまで、なんとなく書いていたというのが正直なところです。


 その証拠に、私の記事はほとんどが、思考から紡ぎだした言葉や、他の人の考え方を持ってきて紹介しているものが、ほとんどでした。


 また、実際のところ、「私は在る」なんということはほとんどなく、毎日、自身の今の悩みや、将来起こるであろう嫌なことや、過去に起こった嫌な出来事に悶々としていたというのが本当のところです。


 しかし、ブログの更新をやめていた半年ほどの間に、エックハルト・トールさんや、ラマナ・マハルシさん、ニサルガダッタ・マハラジさんの本などを眺めて過ごしているなかで、最近、ようやく、「私は在る」という状態に、徐々に落ち着いていられるようになりました。


 ただし、これは、肉体が覚醒してなにが起きても大丈夫だとか、なにが起きてもハッピーだということではなく、特別に神秘的な事が起きたわけではありません。


 私自身にも、一般的に言われる「悩み」というのは依然として残っています。しかし、それに捕らわれることがほとんど無くなってきた、気にしないでいられるようになってきました。


 仕事をしているので、その時に起きる嫌だなと思うことは常にありますが、以前と比べると弱くなってきたように思います。


 ただ、まだ私自身に起きている、この状態をきちんと言語化して伝えることができませんが、ネガティブな思考を持って仕事をしている人にとっては、よりよい状態になれるはずなので、徐々に言語化していってみたいと思います。


第9回(最終回) 「いま、ここ」について


 こんにちは。無名です。


 では、とりあえず今回で、「嫌われる勇気」の説明の最後となります。


 テキストでは第5夜「「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てよ」で詳しい説明がなされています。


 「われわれはもっと「いま、ここ」だけを真剣に生きるべきなのです。過去が見えるような気がしたり、未来が予測できるような気がしてしまうのは、あなたが「いま、ここ」を真剣にいきておらず、うすらぼんやりとした光のなかにいきている証です。」


 「人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しません。あなたは過去や未来をみることで、自らに免罪符を与えようとしている。過去にどんなことがあったかなど、「いま、ここ」にはなんの関係もないし、未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。「いま、ここ」を真剣にいきていたら、そんな言葉は出てこない。」


 では、刹那的な享楽を最大限に受けていればそれが人生なのかというとそうではなく、


 「「いま、ここ」にスポットライトを当てるというのは、いまできることを真剣かつ丁寧にやっていくことです。」


 つまり、将来の目標を「いま、ここ」で考え、それに向けてブレイクダウンした作業を「いま、ここ」で真剣に行っていくという、シンプルな在り方がこの考えの説明です。


 しかし、これは「考え」というよりは、「そのもの」なのです。


 過去や未来は頭のなかで描いたイメージに過ぎません。対人恐怖症であることもあなたが創りだしたイメージです。

 

 「いま、ここ」の概念が腑に落ちると、その対人恐怖症ということ自体を受け入れることができるようになります。


 人間ですから、何かに恐怖を持つことは当然です。私達にできることは、恐怖の原因を考えそれを改められる部分が自分にあるのなら、それを解消するためのアクションを取ることしか自分にはできません。


 自分は何かに貢献しているという貢献感を持ちつつ、今の自分を受け入れて、必要なことを「いま、ここ」で行っていくということです。


 その積み重ねが今現在の自分でもあるし、今、何かを変えれば、将来のある時点の自分はその積み重ねの結果として現れているかもしれないですし、あるいは、偶然の出来事によって、別の状態になっているかもしれません。


 「いま、ここ」というのは、頭のなかで考えて腑に落とすこともできると思いますが、その状態に気づくには、瞑想によるアプローチと組み合わせることで効果が倍増します。


 私は師との瞑想からはじめることで「いま、ここ」の概念を思考として理解することができました。


 興味のある方は、メッセージでもコメントでもご連絡いただければと思います。


 それでは、ここまでお読みいただきましてありがとうございました。


 また、別の形で記事を書いていこうと思います。

第8回 自己犠牲ではない他者貢献について

 こんにちは。無名です。


 前回は、他者貢献についてお話しました。


 対人恐怖を持っている場合は、私もそうでしたが、ごく限られた知人・友人・家族以外の回りが全員敵に見えてしまいます。


 他人をも仲間だと思えることで初めて自分の居場所が確保でき、対人関係の恐怖もなくなるのです。そのためには、自分が誰かの役に立っている(他者貢献)と思えることが大事になってきます。


 テキストではこのように書いてあります(第5夜「人はいま、この瞬間から幸せになることができる」)。


 「人間にとって最大の不幸は、自分を好きになれないことです。この現実に対して、アドラーはきわめてシンプルな回答を用意しました。すなわち、「わたしは共同体にとって有益である」「わたしは誰かの役に立っている」という思いだけが、自らに価値があることを実感させてくれるのだと。」


 「あなたの貢献が役に立っているかどうかを判断するのは、あなたではありません。それは他者の課題であって、あなたが介入できる問題ではない。ほんとうに貢献できたかどうかなど、原理的にはわかりえない。つまり他者貢献していくときのわれわれは、たとえ目に見える貢献でなくとも、「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚を、すなわち「貢献感」をもてれば、それでいいのです。」


 「もし、ほんとうに貢献感が持てているのなら、他者からの承認はいらなくなります。」


 例えば、あなたが上司やクライアントからの叱責に恐怖感を持っているとしましょう。


 その場合も一緒です。あなたができることと、そうでないことをきちんと分けて、あなた自身ができることをするだけしかないのです。


 その結果、さらに怒られたり、懲罰を受けたり、クライアントとの契約が切れてしまうこともあるかもしれません。
 
 それでも、あなたが少しでも他者のためにと思えることをすること、それだけでいいのです。あとはあなたの上司があなたを叱ろうと、誰かからイジメられようと、他者の課題と自分の課題とを整理して、自分は、他者のためになっていると思えることを何か少しでもしていけばよいだけです。


 そのすべきものとは、今の仕事であっても、ボランティア活動でもなんでもいいのです。究極的にはあなたが存在しているだけで、あなたの家族や友人の助けになっているのです。


 次回は、ひとまず最終回ということで、「いま、ここ」ということについてお話しようと思います。


 次回は22日(土)18:30分に更新します。

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