第9回(最終回) 「いま、ここ」について | ”私は在る”に至るまでの軌跡

第9回(最終回) 「いま、ここ」について


 こんにちは。無名です。


 では、とりあえず今回で、「嫌われる勇気」の説明の最後となります。


 テキストでは第5夜「「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てよ」で詳しい説明がなされています。


 「われわれはもっと「いま、ここ」だけを真剣に生きるべきなのです。過去が見えるような気がしたり、未来が予測できるような気がしてしまうのは、あなたが「いま、ここ」を真剣にいきておらず、うすらぼんやりとした光のなかにいきている証です。」


 「人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しません。あなたは過去や未来をみることで、自らに免罪符を与えようとしている。過去にどんなことがあったかなど、「いま、ここ」にはなんの関係もないし、未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。「いま、ここ」を真剣にいきていたら、そんな言葉は出てこない。」


 では、刹那的な享楽を最大限に受けていればそれが人生なのかというとそうではなく、


 「「いま、ここ」にスポットライトを当てるというのは、いまできることを真剣かつ丁寧にやっていくことです。」


 つまり、将来の目標を「いま、ここ」で考え、それに向けてブレイクダウンした作業を「いま、ここ」で真剣に行っていくという、シンプルな在り方がこの考えの説明です。


 しかし、これは「考え」というよりは、「そのもの」なのです。


 過去や未来は頭のなかで描いたイメージに過ぎません。対人恐怖症であることもあなたが創りだしたイメージです。

 

 「いま、ここ」の概念が腑に落ちると、その対人恐怖症ということ自体を受け入れることができるようになります。


 人間ですから、何かに恐怖を持つことは当然です。私達にできることは、恐怖の原因を考えそれを改められる部分が自分にあるのなら、それを解消するためのアクションを取ることしか自分にはできません。


 自分は何かに貢献しているという貢献感を持ちつつ、今の自分を受け入れて、必要なことを「いま、ここ」で行っていくということです。


 その積み重ねが今現在の自分でもあるし、今、何かを変えれば、将来のある時点の自分はその積み重ねの結果として現れているかもしれないですし、あるいは、偶然の出来事によって、別の状態になっているかもしれません。


 「いま、ここ」というのは、頭のなかで考えて腑に落とすこともできると思いますが、その状態に気づくには、瞑想によるアプローチと組み合わせることで効果が倍増します。


 私は師との瞑想からはじめることで「いま、ここ」の概念を思考として理解することができました。


 興味のある方は、メッセージでもコメントでもご連絡いただければと思います。


 それでは、ここまでお読みいただきましてありがとうございました。


 また、別の形で記事を書いていこうと思います。