高代を探して
「彼の僧の娘―高代覚書」試演会シリーズは、正法寺で終了いたしました。沢山の観客の皆様のご来場に感謝します。賛否両論、今後に生かしていきます。まだまだ、感想FAX,メールを御待ちしております!
ラストの正法寺御本堂での公演は借景に、阿弥陀如来のご本尊というすごいセッティングでした。正法寺さんは、オルガンヴィトー公演「パターチャーラー」でお世話になり、二回目の上演です。ご住職の白川さんが、高円寺の稽古場公演を観られて、開演の前の法話をしてくださいました。白川さんは「南無阿弥陀仏に生きた人、憲法や法律など俗世の法ではなく、南無阿弥陀仏に沿って生きようとした人の物語」と語られました。
南無阿弥陀仏、父・顕明の信条はこの六文字に込められた平等思想です。それがどれだけ難しいことなのか、現代でも明らかです。迫害され苦界に生きた娘にとって、それは父を奪ったものの言葉でもありました。僧侶、と教団、国家と個人、その利害というのは必ずしも同じではないし、集団というものは弱い個を圧して強くなるものです。
私が劇団ではなく三人組のメメントをやり、ほぼ客演の俳優の皆さんと芝居をやっているのは、このひたすら集団としての劇団を作りたくないからです。集団になった瞬間に芝居の目的が変わっていくように思えるのです。様々な劇団があるのだから一概に、全体主義だのなんだのは言えませんが、芸人、芸術家として立っている為に私は絶対的な孤独が欲しいのです。何故かわかりませんが、もともと独りが好きなピアノ科だからか、高座で一人勝負する講談、語りと三味線の義太夫、浪花節、のようなものが羨ましくてたまりません。今回の試演会は、照明なし、音響は三味線一本、俳優も最小限と最初から決めていました。それは現実的にお金を掛けられないこと、どこでもできること、個でやること、などの総合的な理由です。様々なことを学び、悔しい瞬間もありましたが方向として間違っていなかったと思うのです。
まず、最初にアクティングエリアの広い高円寺の阿波踊りホールでやりましたが、演者のリレーションや言葉をまっすぐに伝えるのに、かなりフォーカスを絞っていくことが必要でした。その上で空間を生かすダイナミックな動きを明樹さんが作りだしてくれました。かなり激しい感情表現にはその広さが楽でもあったのです。新宮に行きますと、四分の一のスペースとなり、畳二枚に収まる表現、けれども奥行きは変わらないということを目標にしました。以前、芸妓が舞う地唄舞は、四畳半のお座敷に春夏秋冬、喜怒哀楽、神羅万象の宇宙をそこに作りだすのだという事を聞きましたが、芸を極めればそうなるんでしょうね。
新宮に移動して細かい場当たりをし、開演ぎりぎりまで稽古してようやく新宮の一回目をあけました。やってみるとそれはとても楽しく面白く、掘ればほるほど表現が深くなるという具合でした。また、土地の力が大きく、私は耳無し芳一になった気分でした。
芳一は、壇の裏合戦の現場に近い浜辺の寺にいた。それで、琵琶を弾いて平家物語を語ってそこへ平家の亡霊が来る。滅ぼされたものの宴に呼ばれてサーガを謡う芳一は、どうなったか、皆さん知ってますね。自分たちの死ぬ様子を琵琶の調べと共に聞く平氏一門の哀れには、海底のしゃれこうべも涙したでしょう。
新宮での上演で、明樹さんが大逆罪の大検挙が起きた時の町の描写を語る時、その指し示す方向には速玉さんがあり、浄泉寺があり、その町があるわけです。楽器を鳴らしながら、ゾクゾクした瞬間が何度もありました。私が引いていたのは細竿三味線ですが、微妙な「サワリ」という倍音が生まれます。その重なり具合は毎回違うし、温度湿度で変化します。ましてや修業が足りない私なので、なかなかそれをコントロール出来ないのですが、これ、というピッチだとベンベンではなく、ジョンジョンという音が出て、明樹由佳さんのせりふの哀愁がそれに乗るときに、ああこうやって日本人は悲しみや怒り、悔しさ、恐れを唄にしてきたのか、という実感が湧きました。義太夫、くどき、浄瑠璃、民謡などに形を変え年月を経て語られる物語、過去の事件、一節の歌詞が、プロテストを語っているのだろうなあ、とつくづく体感したのでした。足のしびれに閉口しましたが、無事に勤めることができてほっとしてます。
最後の正法寺でお寺が持ってる力に便乗しました。そして至近の観客に伝える事、伝わること、どんな手法が有効なのか、もっともっと伝統芸能の先人を学ぼうと思ったのです。お経の作法というのも意味があり技術があるのにも気が付きました。
一つに自由にやる演劇表現であるけれど、何でも自由にやれば不自由に見えることも分かりました。何を今頃?ですが、子どものような芝居をしていられない、それでは人生を掛ける意味が無いと感じたのです。明樹さんと私の共通認識として、どこへ行っても通じるものを作ろうと言う所へいきました。明樹さんはアヴィニヨンで感じたこと、私は今回感じたこと、それらを磨き上げて行きたいのです、亀のように。
そしてまた語りたくなったら老眼もひどいので女瞽女になっちまおうかとも思いましたが、何しろ五十の手習いで還暦までにもうちょっと上達したいと思います。
今回、使用した三味線を私にくれた伯父さんは86歳の農夫です。彼はダムの宗助伯父さんであり、三味線を弾き謡い、田畑を耕し、幼い私を可愛がってくれた人です。「ちったあ恩返しも出来ただかねえ」と遠州弁で思うのでした。
「ほうい、もう秋の風だらねえ。今年の夏はえらかったで、この頃ぁだいぶゆるせくなったやあ。あんたもくたびれてえらかったらやあ。もうやらんでもええもんで、ちったあゆっくりしないね。」