新宮お披露目会報告 | メメントCの世界

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新宮お披露目会報告
 
9月3日、4日と三回公演で新宮で「彼の僧の娘―高代覚書」をご披露して参りました。 
 
小さな会場ですが、息遣いが全て聞こえるような距離での公演は、より一層、深い上演となりました。
9月9日はトライアルのラストとなる明大前正法寺公演です。
 
それにしても土地の力というのは本当にすごいものなのです。
「太平洋食堂」をご覧になった方、なって無い方、いろんな方が高木加代子さんの半生を見つめる1時間15分となりました。
新宮を9歳で出た加代子さん、大須の芸者置屋に売られ、豊橋などを経由して浜松で売れっ子芸者として名を馳せます。
細い細い線を辿っていって分かった事は、排除された女性が生きる修羅です。
人別改めというのを知っているでしょうか?
「別れろ切れろは芸者の時に言うことば~」
これは少女漫画「はいからさんが通る」で知った泉鏡花のセリフですが、
この芸者とか娼妓の人身売買、擁護する人が未だに居ます。
どうして現代でもその感覚が生きているのか?
こないだ、その元となった婦系図というのを観ましたが、これって結婚差別の話で、人別改めをする話です。
江戸時代の身分制度です。明治、大正は近代となってもやはりそういうものが、人を支配して見る目も扱いもそれが幅を効かせたのです。
芸者というのも、思いっきり排斥されてましたが、それに大逆事件も重なればどれだけ重い桎梏か。
それが無くなったとは思えない現代なんです。
 
宗教の話が入っていたので、「それで救われました」だけの話ではないんですが、加代子さんにとっては天理が行動を変える大きなきっかけでした。
無私の心で他人に尽くすことが、彼女を変え、運命を変え、地域も変えたのでしょう。 
 
そこに無宗教の私は「地の塩」を見る思いです。
「あなた方は地の塩だ」と言ったとかいうイエスキリストは、万民の地道な愛の行為が社会を変え得ると考えていたわけです。
ここで問題なのは、神の子イエスであり神の愛を知ってるからそれを言ったのか、社会変革のアクティビストであったからそう言ったのか?
宗教家と活動家の境目はどこにあるのでしょう?
大石誠之助が死刑を前にして沖野岩三郎に向かって書いた手紙の中で
「運命によって強制されることと、自主的に行うことの違い」についてイエスと主への疑問を書いています。
 
高木顕明は、宗教家として新宮の貧しい檀家を救おうとしたのですが、結局はそれが焼石に水であると感じ苦しみ、自分で経済的自立を
しようと足掻きます。行動せねばと思う心の中に南無阿弥陀仏の一線を踏み越える思いがあったのではないかとおもいます。
私にとっては南無阿弥陀仏はあまり現実世界には響かないのです。きっと宗派の違いもありますが、浄土に向かって響いているように聞こえます。
南無阿弥陀仏がこの世で響くには私にはもう少し何かが必要なのでしょう。
 
明樹さんが演じる高代の姿を見ながら、現代の苦界を思いました。
あちこちに広がる黒い闇のような現代的不幸。
貧困と差別はもっと日常化しているようにも思います。弱い存在であることは悪いことなのだ、と巨大な何かが言っています。
巨大な何かとは?政治でもあり人々の欲望でもあります。全世界を覆う欲望とそれが少なからず関係する戦争と気候変動。
主婦の買う激安の食料や飲料がどこからくるのか?関係ございません、とたかを括って居る事は誰にもできない筈です。
 
ちょっと前に知人にお孫さんが生まれました。
久々に産婦人科でその生まれたてのベビーを抱かせてもらって、持病の胃痛が一時、収まりました。
この赤ん坊が見る世界はどうなるのか?
目も明かない赤ん坊の前で「あの地域や人々や国は虐げてよいし、我々がそれによって守られ、得をするのは当然なのだ」と言える人間はいるでしょうか。
残念ながら居るんです。
だからどこからか救世主が来てほしいと思うのですよ。
でも、救世主は言うでしょう。
「あなた方は地の塩だ!おまえら一人一人がやるんだよ」
というわけです、はい。