11/8(火)にオガワコウイチさん(おやすみホログラムプロデューサー)とのトークイベントがあります。オガワさんはおやすみホログラムのプロデューサーだけでなく、多数のプロジェクトに関わっていて、また作品数的にも多作な方なので、当日の補助線になればと勝手に情報を整理して紹介します。

 

まず僕(RAY)とオガワさんの出会い的な話。コロナ禍でオガワさんが企画していた配信イベント「Future Archives

https://www.loft-prj.co.jp/schedule/broadcast/155254 にRAYをお誘いいただいたのがきっかけでした。この日はオガワさんによるRAY楽曲のアコースティックライブも行われました。

 

※RAYの通販で盤も買えます

https://ray-world.booth.pm/items/2821377

 

元々僕はアイドルオタク時代からおやホロさんが好きだったので(「drifter」のMVが公開されたときはオタク仲間の間でも話題になっていた)この日オガワさん演奏でライブできることがとても光栄でした。

 

 

ギタープレイがとてもダイナミックで(「アコギはダイナミズムですよ!ダイナミズムしかないです!」とのこと)、僕自身がアコギを弾くときのプレイにもかなり影響を与えました。その後もRAYの主催ライブでギターを弾いていただいたり(この時の音源も通販で買えます https://ray-world.booth.pm/items/4008557 )、個人的に飲みに行ったりもして、今ではとても親しみを感じています。

 

オガワさんの多作・多彩っぷりに触れます。オガワさんは作詞作曲家としておやホロを中心に楽曲制作するクリエイターであり、肩書き通りおやホロのプロデューサーであり、また自分自身でも弾き語り、DJなどもプレイするマルチミュージシャンです。提供楽曲もおやホロに留まらず多岐にわたります。

 

COMIQ ON!「NEO WORLD ORDER」

https://twitter.com/comiqon/status/1574780111999897601?s=20&t=at40wtwz6k3OmsQrLW-_jw

 

和田輪「邪悪な人たち」

 

PINKBLESS「蛍」

 

 

コラボクリエイティブも多いです

 

HAKU IHAKU「seasons」 ※一般会社員女性との不思議なプロジェクト(!)

 

ハハノシキュウ『鼠穴/pantomime』pro.オガワコウイチ

 

おやすみホログラム & Have a Nice Day!「エメラルド」

 

その他別プロジェクト、別クリエイティブはオガワさんの主宰レーベルgoodnight! recordsのbandcampにまとまっています。アコースティックからアンビエント、バンドサウンドからクラブサウンドまで本当に多様な音楽を制作しているなと感じることができます。

 

goodnight! records(bandcamp)

https://goodnight.bandcamp.com/

 

11/8のトークイベントではこれだけ多作のオガワさんのクリエイティブ感性のコアがどういうところにあるのか、アイドルプロジェクトとそれ以外の区別、勘所、今後やりたいこと、などを僕自身がどうかという観点も交えながら発展的な会話ができるといいなと思っています。ぜひお越し、ご覧ください!

 

【イベント情報】

11/8(火・夜)

プロデューサーの秋祭り~おやすみホログラムプロデューサーオガワコウイチ&RAYプロデューサーみきれちゃん対談トークイベント

会場:阿佐ヶ谷ロフトA

時間:OP/ST 1900/1930

料金:配信付前2500/一般前 2000/配信付当 2800/一般当 2300(+1D)・配信1500

※入場は配信付前売優先

出演:

オガワコウイチ(おやすみホログラムP)

みきれちゃん(RAY P)

ゲスト:内山結愛、月海まお

進行:大坪ケムタ

チケット:https://www.loft-prj.co.jp/schedule/lofta/230610

日本は音楽と政治の食い合わせが悪い。音楽そのものに不要な色がついて、純粋に音楽を楽しめなくなる、というのがおおよその反発で、ミュージシャンには非政治性が要求される。世界的に、多くの音楽が政治(宗教、思想やマイノリティ性等と置き換えても良い、いずれも広義の「政治」やその「主張」と不即不離である)と不可分であるような歴史を歩んできたことを考えると、日本の状況は特殊に思える。ポピュラーミュージックがイデオロギー性の脱臭された音楽なのだとすれば、日本は音楽一般に「ポピュラーミュージック」のフィルターがかけられているのかもしれない。加えて「よく知らずには行動できない」という半端な知性主義・行動主義の同居も関与しているだろう。

 

自分自身「半端な知性主義・行動主義」を地でいく典型として育ち、またそう音楽を聴いてきた自覚がある(自分は自分で他人は他人なので、他人が音楽にどんな主張を乗せようと、それはそれという感じでもあった)。なので「音楽が政治主張して何が悪い」という真っ向勝負はなかなか説得が難しいのと直感的によく分かる。「行動せよ」ではなく、「半端な知性主義・行動主義」にはもっと効果的な、狡猾なやり方があるように思う、彼らの懐に入り込み、内的に潜りえぐるようなやり方が、宙吊り状態を破る別の回路が、共に「戦争反対」と叫ぶやり方が、音楽はきっと遠回りにも、そうやって何かを変えていくのだと思う、狡猾に、真っ直ぐに。

 

 

 

人間、実存的に全裸では生きられず、庇護されつつ、チャレンジするという生き方をしているように思う。庇護される環境が「家族」、チャレンジする環境が「社会」なのだとすれば、庇護されるだけでも(家族のみ)、チャレンジしかない環境(社会のみ)もいびつに思える。我々は庇護されつつ、チャレンジすることで、バランスをとっている。

 

「家族」は、いわゆる血縁的家族であるだろうし、親しい友人、パートナー、信頼できる同僚・上司、趣味の仲間、よくしてくれる近所のおじさん、ざっくりとコミュニティ、などさまざまあり得るのだろう。

 

「社会」は、成長とか結果とか、自分に厳しくとか、私個人にプレッシャーをかけてくると同時に、同じロジックで仲間を扇動したり、組織・コミュニティ全体を一方向へ向かわせるような、私個人では起こり得なかった感情を掻き立てる。

 

庇護がないと地面がもろく飛び立てないし、掻き立てられないと硬い地面でもどうにも飛び立てない。そういうバランスで僕らは生きているような気がする。

 

組織・コミュニティは両者をどうバランスするかを問われる、逆に個人は「ここは家族なのか社会なのか」と問う。誰も明瞭には分からず、「なんとなく居心地がいい」ことが両者の着地点になるのだろう。

 

組織・コミュニティは、「社会」であることより、「家族」であることの方が難しいのでは、と思う。

 

全裸で放り出された人間が怯えてしまうのは、放り出された先がまず「社会」だからなのだと思う。「社会」はそこら中に溢れているし、正論で、時に思いやりもなく我々を責め立て、なぜできないのか、どうすればできるのかと、教え、寄り添ってもくれない。

 

一方で「家族」は、飛び立つことを忘れしまいそうになる。身の丈で許してくれる、でも本当は身の丈をほんの少しでも越えたい、それが人生を進めるのだとなんとなく分かっている。

 

私は、どう飛び立てばいいのかと悩み、飛ばなくてもいいんだよと、誰かに言って欲しいと思う。私は、それでも少しでも飛びたいと思う。私は、誰に、どういうタイミングで、家族でありえ、社会でありえるのか、と問い、ぐるぐるする。

あらゆる表現行為は、表現の動機や目的、源泉となる欲動、人生経験、地域・社会・国・世界の歴史、文化史といった様々が混ざり合った「ぐちゃぐちゃしたプール」のような潜在性が前段階としてあって、そこからなんらかの表現技術を使い、ぐちゃぐちゃを整流・整形していく、そんなイメージを持っています。その人にとっての「ぐちゃぐちゃ」が何か、どんな技術を使っているのか、どんな感性で整えるのか、そんな見方をしています。

 

コンセプト(あるいは批評性)はそれ単体では表現にならない(表現と共犯するしかない)というジレンマを抱えていますが、では表現との共犯においてコンセプトはどんな役割を担うか、「ぐちゃぐちゃ」を分かりやすく文脈化する、その延長で表現の意味を背後でロジカルに支える、表現に社会性・歴史性・政治性を見出す・接続する、正統受容からあえて異なる視点を切り出す、これら総体として表現を整流する一つの技術であったり、統一感を持たせるパッケージマシンとも理解できるかもしれません。

 

書きたいのは、実際の表現受容体験はコンセプト/表現といったわかりやすい二項対立ではなく、間に中間粒度の緩衝材があったり、また再帰性がある(翻って体験が変容する)という話です。例えば、西欧の教会のフレスコ画を我々日本人がみても初見ではよくわかりませんが、「聖母マリアが受胎告知を受けているシーンです」というキャプションひとつで劇的に印象が変わります。(ひとまずキリスト教に限って)宗教画の背後には、膨大な宗教体系があり、それと相即して社会・歴史・文化・芸術が形成され、フレスコ画はそんな「ぐちゃぐちゃ」的バックボーンの元に存在するわけですが、我々が触れた受胎告知云々の講釈は「ぐちゃぐちゃ」そのものや、その中核である宗教体系の全容では当然なく、「ぐちゃぐちゃ」の情報量がキーワードレベルにまで整流、情報が圧縮されたものです、つまり、コンセプト(宗教体系)そのものでなくとも、コンセプト/表現の中間粒度の緩衝材をかますことで、体験の質は劇的に変わる、ですし、キーワードレベルに希釈されていてもなんらかコンセプトには触れることができていて、さらには、その変容体験は再帰的に翻ってなされます。(宗教画にはそもそも体系を直感可能な粒度まで落とし誰にでも馴染みやすくする役割があります。)

 

「ぐちゃぐちゃ」は文字通り「ぐちゃぐちゃ」していて、それ自身整っている必要はないし、整っているから表現の質が上がるわけでもありません。僕自身小難しいものは好みではなく、むしろ「ぐちゃぐちゃ」が剥き出しのまま表現されているものが好きだったりもします。

 

ここで書きたかったのは、「純然たるコンセプト」や「純然たる表現」というような分かりやすさは存在せず、グラデーションであったり中間粒度の体験が存在したり、よって二項対立はないし、どちらが善悪という話も当然なく、また事実、概念的に翻って体験は変容すること、ですが、一方で最も強調したいのは、コンセプチュアルに物事を理解する必要なんて全くないだろう、ということです(キーワードレベルの中間粒度素材程度には敏感であった方が体験が豊かになるという思いはあり、これが受胎告知の例で言いたかったことですが)。

 

僕個人の表現レベルでは表現そのものを志向しているつもりだし、翻る隙もなくリアルタイムに強度があるものが好きだし、あれこれ書いてきましたが、僕はどちらかというと、というより完全にコンセプチュアルなものとは真逆の人間という自覚があります。ただ、自分が非コンセプチュアルな人間であることと、コンセプチュアルなもの(もっと広く自分の範疇外のもの一般)への理解・関心は同居し得ますし、大事にしているマインドです。

 

丸裸の自分は、本当になんの概念性もない人間で、それゆえに普遍性がないのでは、としばしば感じ、僅かなりともその葛藤のなかで表現を続けていますが、一方で概念的に普遍性があればそれで何かが成立するのかといえば、そんなことはなく、今を生き、同時代的に受け取るあなたの個別性こそが、創作物に決定的な彩りを与えてくれるのだと思います、普遍と具体の矛盾した同居。そんな矛盾しつつ、矛盾が同居するような、表現や創作を続けていきたいという思いは、もうずっと変わってないなと思うのです。この思いは決して変わらず、その中で変わり続けていくと思うのです。

昔から「新しいこと」にあまり興味がない。「面白いこと」とか「楽しいこと」には興味があるが、そこにたまたま「新しいこと」が関与していても、「新しいこと」がプライオリティを持ったことがない。

 

若い頃好んで読んでいた本にも「現在というのは過去と未来が合わさって現れまっせ」みたいなことが書かれていた。何かが生成するということは常に古く、常に新しいというような含意で、要するに「新しいこと≒未来」は過去や現在と等価という価値観が内面化されてしまっている(正確にいうと僕が読んでいた本には「3つは等価っぽいけど未来がより大事っぽい」ということが書かれていたが、そこだけよくわからなかった)。「新しいこと」を扱う媒体には食指が伸びなかった。何十年、何百年、千年とか前の情報の方が面白い気がしていた。過去を掘ることは自分にとって常に新しい発見だったし。

 

自分が学生時代聞いていた音楽や、バンドで演奏していた音楽も、一周、二周時代が遅れていたように思う。音楽評論でよくあるような「現代的な再解釈」とか「リバイバルの意味」とかも、論理的な情報としては理解できたが、実感としてはよくわからなかった(いまだによくわからない)。

 

「新しいこと」を狙ってやるというより、「しっくりくること」がたまたま「新しいこと」だったとか、創作してみたら「新しいこと」への感性がたまたま意識外に内在されていたとか、そういうことなのではないかと思う。

 

自分は感傷的、郷愁を誘うような音楽が好きだが、感傷や郷愁は過去志向的で、それが事実であれ虚構であれ過去存在したであろうなんかしらへの投影の感情とされる。

 

「過去に囚われるな、未来を生きろ」ではなく「過去を敬え、現在を生きろ」が正しいのではないかと思う。現在において「面白いこと」、「楽しいこと」を志向した結果、事後的に「それは新しかった」とされるのではないかと思う。

 

自分はザ・過去志向人間だが、過去、現在、未来のバランス状態が最も適正ではあるとは思う。3つのどこに偏るでもなく、過去を敬い、現在やる面白さがあり、さらに未来を切り開くもの。バランスなのだとすれば、過去:現在:未来=6:3:1くらいの配分で生きてきた価値観を、過去:現在:未来=4:3:3くらいにしていくことが、今後10年の目標かもしれないです。もう人生も折り返すので、流石に何か未来に残す生き方をすべきなのかもしれないです。

 

34歳最後の夜の覚書でした。34歳のあなたは未だに「未来」をよく理解してません。