いわゆる楽曲派の黎明期から界隈を体験してきた(当時はいちファンでしたが)感覚として、黎明期は界隈の動きに逐一新鮮さや享楽がありました。あらゆるカルチャーがそうですが、第一世代が開拓し、その作法に倣って次世代が台頭し、新鮮さと言うよりは定着、成熟、洗練に落ち着いていくと言うような経過を、楽曲派も辿ってきたような肌感があります。このような状況をして飽和状態にあるとも言われますが、部分的には当たっていて、部分的には当たっていません。文化的にも商業的にもまだまだ開拓の余地があると思っていて、その辺りのメモを備忘録的に書きます。
ごく抽象的に、資本主義は、商品化されていない領域を商品化していく永遠の再生産プロセスと言われます。商品化は、すでに商品化されている領域の価値観や考え方をバラして再度商品化していくような動きを基本とします。これは商品化領域を領域化前に戻すような不思議な動きを意味しますが、現代において全く未開拓の領域はほぼ存在しないという理解からきます。ビジネス用語に置き換えるとレッドオーシャン⇄ブルーオーシャンの永遠の運動です。
楽曲派に置き換えてみます。
黎明期楽曲派アイドルは、従来のアイドルフォーマットの考え方や価値観をバラし、そこに異分野的な音楽の入り込む領域を開拓しました(バラしたのは単に音楽的にでなく様々な意味においてですが一旦置いておきます)。開拓された領域に様々グループが新規参入し、次第に領域は飽和して(いくかのような経過を辿って)いきます。資本主義の運命的にはここで再度領域を領域化前に戻す動きが起き、飽和・滞留した価値観をバラして隙間を生み出す形で再開拓され、シーンは続いていきます。ではどうバラし得るか、ビジネスチックに言うと、どうゲームチェンジし得るか、あと、そもそも飽和してるんだっけ?、といった観点から考えてみます。
1つ目、楽曲派界隈はマーケット規模としてはまだまだ発展段階です。飽和した、という時、それは狭いパイのなかで飽和したのであり、未開拓層をいかにパイに取り込んでいくかという動きは有効です。当たり前のことを言っているようですが、既存領域外を意識する動きは後回しにされがちで、また抽象思考に止まりがちです。ここに開拓の余地があります。単に界隈の面白さを知らないだけの層は無数に存在する感覚です。(これはコンテンツをマスに寄せるという意味ではなく、我々は楽曲派然としたままで、マスを界隈に引きずり下ろすような動きです)
2つ目、楽曲派はいわゆるアイドルソングに比べマイナーな音楽ジャンル・作法の取り込みを内包しますが、単純にまだ試されていない音楽ジャンルは無限にありますし、ジャンル内での作法も無数にパターンがあり得ます。全然やり尽くされていない、という見方です。ただし闇雲な取り込みでは成功せず、ジャンルの選択にはライブアイドルフォーマットとの相性があり、この相性に関する考え方がディレクターの勘所です。
3つ目、相性の考え方にもすでに様々ベースはあります。例えば、リズムの難解な音楽はライブアイドルに不向きと考えられがちです。リズムの難解さは音楽自体の難解さと結びつきやすく、ライブアイドルのエンターテイメント的側面とバッティングしやすいからです。「変拍子アイドルソングなんていくらでもあるぞ」という声が聞こえてきそうですが、そうしたアイドルソングは既存の考え方をバラしたオルタナティブとして登場しているはずです。ここで言いたいのは相性を考える上で逆張りの余地はいくらでもあるという事で、例えば音楽の難解さを前面化することは、単なるエンターテイメントではなくアーティスティックな表現でもありうるという別側面を開拓します(念のための補足ですが、表現性がそれまでなかった、という意味ではありません、自覚的に取り出すことに成功した、程度に理解してください)。リズムの話題は、相性に関する固定観念をバラすやり方のあくまで一例ですが、ここで言いたいのは「そんなのありなんだ」的な動きはまだまだ可能ということです。
ここまでは「別に飽和してないっしょ、まだまだやれる」という話題です。次からは「飽和してるといえばそう、じゃぁどうしよう」という話題です。
4つ目、ライブアイドルはおおよそチェキ会の収益がボリュームを占めますが、この収益モデルのオルタナティブは、ライブアイドルのあり方を決定的に変えると思います。収益がチェキ会に依存するため、当然プロデュースの力点はライブにおかれます。イベント企画、ライブパフォーマンスやそれを鍛えるためのレッスン、あるいは衣装もライブでの動きやすさを前提とし、ヒト・モノ・カネや思考のリソースはライブを中心に割り当てられていきます。ライブアイドルの定義上当たり前のようですが、ライブがあるからライブに付随する収益装置が駆動しているのではなく、逆にライブ中心の収益装置があるからライブが駆動している面も大きく、ここに開拓の余地があります。つまりこのロジックが正しいのだすれば、新しい収益装置の発明は、新しいライブアイドルの形を定義することになります。すると組織内のヒト・モノ・カネや思考の動き方も劇的に変わるはずで、つまりアウトプットも変化します。しかし、ライブアイドルの定義そのものをズラし得るような、そんな収益モデルはありえるのでしょうか。
5つ目、飽和しているようでまだまだ様々な開拓の余地があり得そうですが、どの観点から見ても一点突破は難しそうで、すると組み合わせ(アレンジメント)がキモになり、プロデュースは総合点の演算であると考えられます。というより、実はこの「アレンジメント可能性」が楽曲派が開拓した本当の意味なのかもしれません。変拍子の導入は単にその事実だけではなく、ライブアイドルのエンターテイメント性に表現性を開拓する意味が並立します。これと同じように、ある音楽性の選択は、その事実だけではなくなんらかの新しい意味を生成する、ということがもし起きているのであれば、界隈にはすでに音楽ジャンル・作法をめぐる無数の「意味」が存在していることになり、この意味もまたアレンジメントの対象ということになります。
また、アレンジメントといっても、データベースからただ情報を配置・配列するような無機的なものではなく、アイドルでのアレンジメントは配置・配列するなり即n+1が加わり有機的に生成変化します。これは、作者:作品が1:1対応するコンテンツと異なり、あらゆる創作が常に共同創作となることに由来しているように思います。俗に「化学反応」と呼ばれる現象はこうしたことを意味しているのかもしれません。総合点の演算には常に剰余函数が入り込み、この揺らぎもまた広義の未開拓性と考えることができるかもしれません。
何か異分野的音楽ジャンルを取り入れが、付属する意味を生成し、その意味がまた何かしらと接続したり、別の意味を生成する、そしてそのストックはアレンジメントデータベースに蓄積されていく、このデータベースをもとに再配置・再配列が行われ、n+1化される中で剰余が再生産され続けていく、実は楽曲派はそんなメカニズムを持つのではないでしょうか。
6つ目、ライブというコンテンツレベルではなく、ライブを生み出す能力レベルを売り物にするという考え方はどうでしょうか。音楽はじめ様々なモノを組み合わせ演算してn+1化する機能構造自体を商品化するということです。ライブアイドルと企業との協業は、イメージキャラクターやおまけ程度のライブ披露に止まりがちですが、協業企業分野を取り込んだアイドルアレンジメントを提供することで、協業企業分野の価値観をバラし、剰余・開拓の余地を提供する、というプレゼンです。言い換えると、難解な楽曲をコレオグラフィーと共に見事にライブパフォーマンスに昇華する楽曲派アイドルグループのメンバー(と同時に制作チーム)の能力は、別の発揮の仕方もあり得るのでは、と言うような話題です。これは収益化モデルオルタナティブへの、抽象的な一案でもあります。
最後に、1−3は飽和してない観点、4−6は飽和してるかも観点で書きましたが、改めてごくシンプルに、既存の土俵でコンテンツの質を高めていく、という所作においても、まだまだやりようがあるように思います。バラすもなにも、それ以前に頑張るべきことがある、ということで、既存土俵ですら戦えないようでは上記のようなトリッキーな動きは説得力を持たないので、ズレるにしても、乗りつつ逸れる的な動きをする必要があります。実際問題、僕個人戦い方の戦略がここからズレることはないです、それは戦略というよりも、愛とか根性とか執念に近いものかもしれません。
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資本主義の抽象構造から、楽曲派のバラし方、再領域化を考えてみました。資本主義という言葉遣いはしばしばネガティブな含意を持ちますが、我々が資本主義から逃れることは極めて困難です。組織運営をする人間として、資本主義内部でヴァリアントを生み出すことは、勝つための基本所作であり、そのためここでのメモも資本主義内部の思考に止まっています。我々は資本主義で戦う、しかし愛を持って、そうした思いです。
また、おおよそ抽象論は実装するにあたり軌道修正を強いられます。思考実験や抽象論をベースに実践し、実装段階でつまずき、思考を換骨奪胎し、また鍛える、というこれまた資本主義的プロセスは、飽和に滞留せず動き続けるための実戦であると思います。なので、ここで書いたことが実践されアウトプットされるとしても、それは既にn+1化され、別のものとして現れるはずです。