いわゆる楽曲派の黎明期から界隈を体験してきた(当時はいちファンでしたが)感覚として、黎明期は界隈の動きに逐一新鮮さや享楽がありました。あらゆるカルチャーがそうですが、第一世代が開拓し、その作法に倣って次世代が台頭し、新鮮さと言うよりは定着、成熟、洗練に落ち着いていくと言うような経過を、楽曲派も辿ってきたような肌感があります。このような状況をして飽和状態にあるとも言われますが、部分的には当たっていて、部分的には当たっていません。文化的にも商業的にもまだまだ開拓の余地があると思っていて、その辺りのメモを備忘録的に書きます。

 

ごく抽象的に、資本主義は、商品化されていない領域を商品化していく永遠の再生産プロセスと言われます。商品化は、すでに商品化されている領域の価値観や考え方をバラして再度商品化していくような動きを基本とします。これは商品化領域を領域化前に戻すような不思議な動きを意味しますが、現代において全く未開拓の領域はほぼ存在しないという理解からきます。ビジネス用語に置き換えるとレッドオーシャン⇄ブルーオーシャンの永遠の運動です。

 

楽曲派に置き換えてみます。

 

黎明期楽曲派アイドルは、従来のアイドルフォーマットの考え方や価値観をバラし、そこに異分野的な音楽の入り込む領域を開拓しました(バラしたのは単に音楽的にでなく様々な意味においてですが一旦置いておきます)。開拓された領域に様々グループが新規参入し、次第に領域は飽和して(いくかのような経過を辿って)いきます。資本主義の運命的にはここで再度領域を領域化前に戻す動きが起き、飽和・滞留した価値観をバラして隙間を生み出す形で再開拓され、シーンは続いていきます。ではどうバラし得るか、ビジネスチックに言うと、どうゲームチェンジし得るか、あと、そもそも飽和してるんだっけ?、といった観点から考えてみます。

 

1つ目、楽曲派界隈はマーケット規模としてはまだまだ発展段階です。飽和した、という時、それは狭いパイのなかで飽和したのであり、未開拓層をいかにパイに取り込んでいくかという動きは有効です。当たり前のことを言っているようですが、既存領域外を意識する動きは後回しにされがちで、また抽象思考に止まりがちです。ここに開拓の余地があります。単に界隈の面白さを知らないだけの層は無数に存在する感覚です。(これはコンテンツをマスに寄せるという意味ではなく、我々は楽曲派然としたままで、マスを界隈に引きずり下ろすような動きです)

 

2つ目、楽曲派はいわゆるアイドルソングに比べマイナーな音楽ジャンル・作法の取り込みを内包しますが、単純にまだ試されていない音楽ジャンルは無限にありますし、ジャンル内での作法も無数にパターンがあり得ます。全然やり尽くされていない、という見方です。ただし闇雲な取り込みでは成功せず、ジャンルの選択にはライブアイドルフォーマットとの相性があり、この相性に関する考え方がディレクターの勘所です。

 

3つ目、相性の考え方にもすでに様々ベースはあります。例えば、リズムの難解な音楽はライブアイドルに不向きと考えられがちです。リズムの難解さは音楽自体の難解さと結びつきやすく、ライブアイドルのエンターテイメント的側面とバッティングしやすいからです。「変拍子アイドルソングなんていくらでもあるぞ」という声が聞こえてきそうですが、そうしたアイドルソングは既存の考え方をバラしたオルタナティブとして登場しているはずです。ここで言いたいのは相性を考える上で逆張りの余地はいくらでもあるという事で、例えば音楽の難解さを前面化することは、単なるエンターテイメントではなくアーティスティックな表現でもありうるという別側面を開拓します(念のための補足ですが、表現性がそれまでなかった、という意味ではありません、自覚的に取り出すことに成功した、程度に理解してください)。リズムの話題は、相性に関する固定観念をバラすやり方のあくまで一例ですが、ここで言いたいのは「そんなのありなんだ」的な動きはまだまだ可能ということです。

 

ここまでは「別に飽和してないっしょ、まだまだやれる」という話題です。次からは「飽和してるといえばそう、じゃぁどうしよう」という話題です。

 

4つ目、ライブアイドルはおおよそチェキ会の収益がボリュームを占めますが、この収益モデルのオルタナティブは、ライブアイドルのあり方を決定的に変えると思います。収益がチェキ会に依存するため、当然プロデュースの力点はライブにおかれます。イベント企画、ライブパフォーマンスやそれを鍛えるためのレッスン、あるいは衣装もライブでの動きやすさを前提とし、ヒト・モノ・カネや思考のリソースはライブを中心に割り当てられていきます。ライブアイドルの定義上当たり前のようですが、ライブがあるからライブに付随する収益装置が駆動しているのではなく、逆にライブ中心の収益装置があるからライブが駆動している面も大きく、ここに開拓の余地があります。つまりこのロジックが正しいのだすれば、新しい収益装置の発明は、新しいライブアイドルの形を定義することになります。すると組織内のヒト・モノ・カネや思考の動き方も劇的に変わるはずで、つまりアウトプットも変化します。しかし、ライブアイドルの定義そのものをズラし得るような、そんな収益モデルはありえるのでしょうか。

 

5つ目、飽和しているようでまだまだ様々な開拓の余地があり得そうですが、どの観点から見ても一点突破は難しそうで、すると組み合わせ(アレンジメント)がキモになり、プロデュースは総合点の演算であると考えられます。というより、実はこの「アレンジメント可能性」が楽曲派が開拓した本当の意味なのかもしれません。変拍子の導入は単にその事実だけではなく、ライブアイドルのエンターテイメント性に表現性を開拓する意味が並立します。これと同じように、ある音楽性の選択は、その事実だけではなくなんらかの新しい意味を生成する、ということがもし起きているのであれば、界隈にはすでに音楽ジャンル・作法をめぐる無数の「意味」が存在していることになり、この意味もまたアレンジメントの対象ということになります。

 

また、アレンジメントといっても、データベースからただ情報を配置・配列するような無機的なものではなく、アイドルでのアレンジメントは配置・配列するなり即n+1が加わり有機的に生成変化します。これは、作者:作品が1:1対応するコンテンツと異なり、あらゆる創作が常に共同創作となることに由来しているように思います。俗に「化学反応」と呼ばれる現象はこうしたことを意味しているのかもしれません。総合点の演算には常に剰余函数が入り込み、この揺らぎもまた広義の未開拓性と考えることができるかもしれません。

 

何か異分野的音楽ジャンルを取り入れが、付属する意味を生成し、その意味がまた何かしらと接続したり、別の意味を生成する、そしてそのストックはアレンジメントデータベースに蓄積されていく、このデータベースをもとに再配置・再配列が行われ、n+1化される中で剰余が再生産され続けていく、実は楽曲派はそんなメカニズムを持つのではないでしょうか。

 

6つ目、ライブというコンテンツレベルではなく、ライブを生み出す能力レベルを売り物にするという考え方はどうでしょうか。音楽はじめ様々なモノを組み合わせ演算してn+1化する機能構造自体を商品化するということです。ライブアイドルと企業との協業は、イメージキャラクターやおまけ程度のライブ披露に止まりがちですが、協業企業分野を取り込んだアイドルアレンジメントを提供することで、協業企業分野の価値観をバラし、剰余・開拓の余地を提供する、というプレゼンです。言い換えると、難解な楽曲をコレオグラフィーと共に見事にライブパフォーマンスに昇華する楽曲派アイドルグループのメンバー(と同時に制作チーム)の能力は、別の発揮の仕方もあり得るのでは、と言うような話題です。これは収益化モデルオルタナティブへの、抽象的な一案でもあります。

 

最後に、1−3は飽和してない観点、4−6は飽和してるかも観点で書きましたが、改めてごくシンプルに、既存の土俵でコンテンツの質を高めていく、という所作においても、まだまだやりようがあるように思います。バラすもなにも、それ以前に頑張るべきことがある、ということで、既存土俵ですら戦えないようでは上記のようなトリッキーな動きは説得力を持たないので、ズレるにしても、乗りつつ逸れる的な動きをする必要があります。実際問題、僕個人戦い方の戦略がここからズレることはないです、それは戦略というよりも、愛とか根性とか執念に近いものかもしれません。

 

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資本主義の抽象構造から、楽曲派のバラし方、再領域化を考えてみました。資本主義という言葉遣いはしばしばネガティブな含意を持ちますが、我々が資本主義から逃れることは極めて困難です。組織運営をする人間として、資本主義内部でヴァリアントを生み出すことは、勝つための基本所作であり、そのためここでのメモも資本主義内部の思考に止まっています。我々は資本主義で戦う、しかし愛を持って、そうした思いです。

 

また、おおよそ抽象論は実装するにあたり軌道修正を強いられます。思考実験や抽象論をベースに実践し、実装段階でつまずき、思考を換骨奪胎し、また鍛える、というこれまた資本主義的プロセスは、飽和に滞留せず動き続けるための実戦であると思います。なので、ここで書いたことが実践されアウトプットされるとしても、それは既にn+1化され、別のものとして現れるはずです。

 

7/17にRAYとNaNoMoRaLさんとのツーマンがあります。実はこのツーマン+特別企画のアレンジ含めた楽曲交換は、思いつきや成り行きではなく、1年くらい前から温めてきた企画です。企画の意味づけは様々あり得ますが、お客さんの楽しみ方の補助線になれば良いなと思い、企画の経緯、補足的な文章を書いておこうと思います。(ツーマンやスリーマンにおいては「相性」や「物語」と言った言葉がしばしば使われます。今回のツーマンの「相性」や「物語」は、実は意外と目に見えにくいものではないかと思い)

 

まず、これは極めて運営的(というか僕個人的)・背景的な話ですが、僕と、NaNoMoRaLの雨宮未來ちゃん、梶原パセリちゃんとは結構長い付き合いで、お互い過去所属・プロデュースしていたチームの頃から仲良くしてもらってました。仲がいい、というか、2人の音楽活動にかける思いや情熱、それが生々しく反映されるライブパフォーマンス、またステージを降りた時に一際感じる優しく柔らかな人間性など、2人をあらゆる面で古くから尊敬していて、その延長で長くおつきあいさせてもらってるような感じです。2人はその後NaNoMoRaLとして活動を始めますが、それは必然のように思えたし、紆余曲折を経た2人がNaNoMoRaLという形で生み出す魂の音楽やライブが素敵なことは、僕がどうこう書くより、誰よりもみなさんがよくご存知かと思います。

 

RAYとNaNoMoRaLは一見すると共通点より相違点のほうが多いのでは?とも思います。

 

楽曲面でいえば、僕とパセリちゃんのルーツはまるで違います。分かりやすい例を書くと、僕の楽曲はパワーコード派生の「コード感」とそのコード感で「隙間なく埋める」ことを特徴としてパンク色が強いですが(自分の曲に限っての話ですが)、パセリちゃんの曲はパワーコードより下の弦で7thや9thを表現したりギターメインだけど音色も多様で隙間に様々な音色やリズムをバランスよく配置すること特徴として、雑な言い方になりますがフォーク色が強い感じです。

 

パフォーマンス面でもRAYは振り付け含めある程度カチッとした世界観を見せるスタイルですが、NaNoMoRaLは振り付けがない自由度でその時々の情動を直に表現するスタイルです。

 

一方、両者に共通しているのは、楽しさの中にどこか切なさがあること、それを楽曲・歌詞・パフォーマンスなど様々なレベルで感じること、ステージは生き様の表現で、だからこそそこに見る側が様々な想いを投影してしまうこと、かなと個人的には思っていて、相違点の裏でこうした精神性が通奏低音として流れていることが、今回のツーマンの隠れたテーマ、意味になっているような気がしています。僕はNaNoMoRaLのライブを見るたび、楽しく切なく、すべての生き方や感情を受け入れてくれる優しさを感じます、RAYもそんなグループでありたいな、そんな魅力をもしかしたらお互いにポジティブに影響しあえるような企画になったら良いな、なんて思います。

 

 

今回のツーマン、楽曲交換は、お客さんに、そしてメンバーにも、こうした様々な相違点や共通点がぐちゃぐちゃに交錯し合うような場なればいいなと思っています。アレンジレベルでの楽曲交換までパワーを割けることはなかなかないので、是非この機会を体感して欲しいです。

 

■NaNoMoRaL各種サブスクリプション

https://www.tunecore.co.jp/artists/nanomoral


■RAY各種サブスクリプション

・1stアルバム『Pink』

https://linkco.re/mc9RUeaV

 

・2ndシングル『Yellow』

https://linkco.re/VgYNhxrn

 

■イベント概要

Tribu pre.RAY×NaNoMoRaL

会場:西永福JAM

時間:OP/ST 1630/1700

料金:前/当 3000/3500(+1D)

前売:TIGET https://tiget.net/events/135028

 

タイムテーブル

16:30/開場

17:00-17:40/RAY(40)

転換・換気(10)

17:50-18:30/NaNoMoRaL(40)

18:30-19:50/物販・特典会(80)

人間、死ぬまで知らないことの方が圧倒的に多い、というか究極何も知らずに死んでいくわけですが、ところで、知らないことというのは耐え難いことでもあります。我々の行いは全て、知らないものを知っているものに変換しようとする企てとも言える中で、当然知らないことはネガティブな意味を持ちます。

 

このため我々はある特定に形作られたなんかしかの分野を選択して、知っているものを増やし、知らないものからのプレッシャーに耐力をつけていくわけですが、分野の外部に一歩出ればみんな全裸同然です。

 

知らないことはある種の暴力として存在する一方で、新しいものに出会うワクワク感や、それを求めることを突き動かす動機でもあり、何か人間の奥底に眠ってそうな開拓精神において希望でもあります。知らないことに絶望しながらも、知らないことにワクワクし、毎日新しい音楽を聞いたり、本を読んだり、勉強していた青年時代の自分も、そんな心境だったように思います。

 

「スポンジのように吸収する」という表現は、知らないことを許容するスペースに、知らないことが知っていることとして収まっていく様子です。同時に、スポンジは水を吸い切るとそれ以上を許容しないという、残酷な現実も表しています。水を吸い切ったスポンジの我々はどうなるのでしょうか。

 

実際、歳を取るごとに、精神に占める新しいもののスペースが縮小しているのを感じるし、どっちが先か分かりませんが、新しいものとの出会い自体が減っているような感覚があります。これは最初に書いた、知っていくことは知らないことへの防御力であることも関係あるかもしれません。また、人間はある程度知っていることをストックすると、生産側に周り、消費・吸収がサイクルから外れてしまうこともあるかもしれません。歳を取ると感性のアップデートが止まり、同時代的な新しさを感じる能力が落ちてしまうのかもしれません。

 

なぜこんなことを考えはじめたかというのも、実際ここ数年の自分にとって、知っていること/知らないことのバランスが自分にとって居心地の良いものでなくなってきた感覚があるからです。今、日中は一般企業でサラリーマンをしていますが、その環境を構成する「ノウハウ蓄積」、「キャリア形成」、「成長」といったフレームで得られるものは、自分が求める、楽しいと感じる知らないこととの出会いでもないし、またそこでリソースが割かれることで、人生というより大きな目線で見た時、知らないこととの出会いのきっかけが大きく摘み取られているようにも感じます。

 

大人になる、地に足をつける、といったことは、知らないことと手を切ることなのかもしれません。でも、水を吸収し続ける、スカスカのスポンジであり続けたいなという思いは強く、「お前はサラリーマンには向いてないよ」と僕の就職を見送った知人のことを思い出し、そんなことを考えるのでした。

「アイドルってシミュレーショニズムでは?」みたいな雑な思い付きから椹木野衣の『シミュレーショニズム』を読み始めた。読後感として、椹木野衣は「アイドルはシミュレーショニズムではない」と明確に否定するだろうと思う。それは「シミュレーショニズムが前提としている世界観は、ニーチェの云うところの「完全なるニヒリズム」ということになるだろう」という福田和也による解説の一文に集約されているように思う。だってアイドルをニヒルに推すことはできない(論理矛盾だ)から。しかし、「アイドル」を「楽曲派アイドル」に置き換えることで、シミュレーショニズムとの親和性はぐっと増すことにも気づく。冒頭の思い付きもどちらかというと一部のルーツ音楽トレース型楽曲派アイドルに対する感覚だった。2010年代~20年代アイドルは、部分的にはシミュレーショニズムであり、部分的には反シミュレーショニズムであるというこのハイブリットを読み込むことができるかもしれない、というのが総合的な読後感です。

本書のいう「シミュレーショニズム」はポストモダン時代の象徴として説明される点で一貫している。ハウスミュージックのサンプリング、カットアップ、リミックスという作法がドゥルーズ・ガタリのいう分裂症との類比で説明されることからもよくわかる。サンプリング、カットアップ、リミックスという手法について、著者は独自の意味付けをしている。

サンプリングは、既製品としてのディスク・ミュージックの一部を略奪的に流用し、それを新たなコンテキストの中に接合することによって原意味を脱構築する。カットアップは、サンプリングを敢行する際に、その原意味を爆破するための分裂症的手段で、その原型をウィリアム・S・バロウズの言語実験に求めることができるだろう。リミックスはこうして形成されたサンプリング・ミュージックのプライオリティを再度脱構築することになる。原則的に一種類のサンプリングからは、無限のリミックス・ヴァージョンを導き出すことが可能である。p248

ここで重要なのは、著者が、サンプリング≠引用、カットアップ≠コラージュ、リミックス≠パロディと、区別し前者こそがシミュレーショニズムであり、後者はモダンな作法であると区分けしていることだ。「引用」は最終的に自己表現的に首尾よい形でアウトプットされ(作者性がある)、「コラージュ」は予定調和的な箱庭感があり(目的論的)、「パロディ」は本質直観による要約である故反復性に欠く(一回性がある)、とされるのに対して、ハウスミュージックの「サンプリング」、「カットアップ」、「リミックス」はそれぞれの対概念として分裂症的な表現様式だとされる。

またシミュレーショニズムとそうでないものの対比として、ロックは人格的、風景的、教会的、パラノイアック、ハウスは非人格的、没風景的、サーカス的、スキゾフレニック、という比較も登場する。

ここまでくると、(楽曲派)アイドルはシミュレーショニズムと真っ向から対立するものであると分かる。楽曲派アイドルソングはしばしば引用であり、コラージュであり、パロディであり、またアイドルという生身の人間をフィルターすることは極めて人格的であり、教会的であり、パラノイアックである。著者からすると、ここまで反シミュレーショニズムなコンテンツはないのではという気がする。

が、現代アイドルはそれほど構図が単純でない。著者の様々な区分は、表現者(作家性)という中心存在を必要とするパラノイアックな様式と、中心不在の平面的なハウスミュージック的システムという区分をベースにしているが、アイドルには中心を持ちながら中心を持たないという特性があるからだ。アイドルコンテンツが自己表現だとして、表現主体はアイドルなのか、プロデューサーなのか、楽曲提供者なのか。おそらくそのすべてである。アイドルにおける中心は常に組み替え可能な並列要素であるという点で単純なパラノイア性とは異質で、またこの中心並列性、中心の多重化は、すでに様々なアイドルに見出すことが可能であるという意味でシステマティックに機能してるものである。パラノイアックな中心性が、スキゾフレニックに平面分散されており、パラノイア性とスキゾフレニア性を止揚、調停して両立させるフォーマットこそが「アイドル」なのではないかという気がする。

また、しばしば楽曲派アイドルにおける引用、コラージュ、パロディは露骨に行われる。過去の参照は「分かる人にだけ分かる」玄人的なものではなく、ルーツに対して明示的に解放されており、これはコンテンツの主導権を現代から過去に自覚的に送り返すものである。ここでもまた「中心」の並列化が行われている、ある引用は、その中心をある曲を作った作者から、曲の引用元へと送り返す。ルーツを明示的に表現すればするほど、中心移動は活発になり、システムを駆動する。(そしてアイドルはしばしばルーツを「略奪」することから批判される。なぜ「略奪」できるのか、それはアイドルが本著で想定されているような「アーティスト」ではないからだ。「音楽知識もなく楽器演奏もできないアイドル」というステレオタイプな認識に中心をおいた時、その「略奪」は露骨になる。しかしそれは「音楽」が「音楽ならざるもの」と並列されているというスキゾフレニックな現象である(これっていいことでは?)。そこに最大限の敬意があっても、略奪は認められないことがある(これはただの愚痴)。著者は(ハウスミュージックに触れる前に)芸術が芸術に閉じず他分野に開けていくポストモダン状況を辿るが、これと同じことが「音楽」で起こったと考えるとどうだろう。)


本著の上梓から30余年を経た現代、我々は分裂症的に陶酔する機械的な世界観だとか、「あえて没入」してみるニヒルな生き方だとかには満足できず、並列化した中心を組み替え楽しむパラノイアとスキゾフレニーをいいとこどりした「エンターテイメント(それはロックでもハウスでも芸術でもないかも)」を生きているのかも。

==以下メモ==
それぞれの規範とする「イズム」を現代に継承しようとするのではない。むしろ、過去の歴史に埋葬されている、ありとあらゆる終わってしまった様式を墓掘り人さながら自由に借用して、それを一種のゾンビとして復活させる、美術史におけるネクロフィリア(死体愛好癖)のようなものではないか、と。p16

ファッションでいうならいわば「リメイク」とか「リモデル」あるいは「レトロ」といったものに近いし、音楽で言うなら「カバー」とか「リミックス」とか、そういう考え方ですね。最近の社会的動向に倣って「リサイクル」と呼んでみてもいいかもしれません。つまり、美術史を大量生産する時代は終わった。これ以上、生産しなくてももう消費しきれないくらいの様式が過去に眠っている。歴史的廃棄物も、使えるものなら再利用しなければならない。ならばそれらのほこりを払って、腐った部分は切って捨てて使える部分は使い、リサイクルしてみたらどうか。あわよくばそのことによって、それらの様式の未知の利用法や、以前は気づかれなかった欠陥が見つかるかもしれない、という訳です。p19

西欧の芸術を根本からつかさどってきた大きな意味を持つことばに「創造」というものがあります。もしこれが、まったくのゼロから何かを生み出す行為を意味するとするならば―そして多くの場合、作家が作品を生み出すことはこの比喩によって語られてきたのですけれども―シミュレーショニズムにおいてはそれとはまったく別の考え方、つまり創造ではなく、「形成」あるいはもっとくだいていうならば「編集」ともいうべき泥臭い手つきが浮上してきます(あるいはこのことを、レヴィ・ストロースにならって、野生の「ブリコラージュ」と呼んでもよいでしょう)p107

「サンプリング」、「カットアップ」、「リミックス」
サンプリングは、既製品としてのディスク・ミュージックの一部を略奪的に流用し、それを新たなコンテキストの中に接合することによって原意味を脱構築する。カットアップは、サンプリングを敢行する際に、その原意味を爆破するための分裂症的手段で、その原型をウィリアム・S・バロウズの言語実験に求めることができるだろう。リミックスはこうして形成されたサンプリング・ミュージックのプライオリティを再度脱構築することになる。原則的に一種類のサンプリングからは、無限のリミックス・ヴァージョンを導き出すことが可能である。p248

サンプリングに関して認識論的に言及すべき最大の問題は、それが「引用」ではないということに尽きる。たとえば「引用」が、結局は他者をいかにして自己に調和させるか、ひと綴り自己表現の小宇宙に首尾よく配置させるか、という問題だったようにしては「サンプリング」は引用しない。それはあくまで略奪的な戦略なのであり、「引用」がそれをなす当事者の表現的自我を不可避的に肥大させるのに対して、サンプリングを敢行した当事者の自我は抹消され、無名性の中に霧散する。さらにいえば、引用する者が富めるものから「収奪」するものを、サンプリングする者は「没収」しているのである。p248

サンプリングが引用でないのと同様に、カットアップはコラージュではない。コラージュがいかに異質な要素を同一平面上に共存させようとしているにしても、結局のところそれは、箱庭的な予定調和を目指す表現者の趣味性を具体化する一方法といった感は免れない。これに対してカットアップは、むしろ党の表現者を裏切るべくして機能する。そこには切り刻むことによる偶然性が乱暴に導入され、この偶然性が選択者の意思の必然に従った配列とあいまみえて進行していゆく。そこでなされているのは、かつて瀧口修造を中心として活性化したジャパニーズ・シュルレアリスムのごとき、空想を具体化する一手法としてのコラージュなどではなく、むしろそうした無意識的な空想の凡庸さを破壊し、そのような虚構の弱き「超現実」を、より強度を有した理不尽なる現実にさらすことにある。そう、ブライアン・ガイシンとウィリアム・S・バロウズはかつて文学は絵画(コラージュ)に対して五十年は遅れていると考えてカットアップを創造した。しかしその時彼らは文学を絵画(コラージュ)の次元に引き上げることはおろか、実は少なくともそれに三十年は先行することになったのである。p250

リミックスは、サンプリングされ、カットアップされた分裂症空間を、微小な差異を連鎖的に形成する反復へとさらすことによって欲望の無限連続体を導き出す。この意味においてリミックスは、サンプリングが引用と、カットアップがコラージュと分離されたように、その原型に対する距離の特殊な形成において、パロディと厳密に峻別されるべきものである。パロディとは、要約によってなされる、当の対象の本質直観に基づいている。しかし、リミックスは決して要約しない。それはひたすら反復する。レヴェル・ダウンしようがレヴェル・アップしようがかまいはしない。そこで行われるのは盲目的なまでのひたすらの反復である。DJミュージックのはたした大きな達成に、レコーディング・ミュージックがレコーディング・ミュージックたるべきその数多性(レコーディングは何回でもやり直し可能である)を、レコーディング・ミュージックをライブ・ミュージックになぞらえることによって表象される「ベスト・テイク」の単一性から奪回したことが挙げられる。すなわち、ベスト・テイクが原理的に存在しない以上、それを巡ってその周囲に同心円状に配置される「パロディ」もまた存在しない。リミックスにおいては、すべては等価である。p254

ロック・ミュージックが、ベース、ドラムス、ギター、ヴォーカルといった、みずからの本性に固有の「元素」からなる、観念上の無限分割が不可能な音楽なのに対して、ハウスミュージックは事実上、無限に分割が可能であるような「原子」―いわば一様に均質な快楽のための粒子―からなる音楽である。p262

そもそもロックとは「ロックではない音楽‐ではありえない音楽」、すなわちいかにしても芸術たりえない表現としてこそ強度を持ちうるのであるが、クリムゾンの試みは、ロックが芸術化するぎりぎりの地点で強制的にその表現をロックの側に引き戻すことに多くを負っていた。p275

ハウス・ミュージックを一概に「音楽的」に体験しようとする態度は根本的に誤っている。それは低質だが莫大なる「量」として、鑑賞されるのではなく「観測」されるのであって、この量こそがハウスミュージックにおよそ前例のない強度を与えることになったのである。p291

僕が音楽を熱心に聞き出したのは2003年頃です。高校時代はレコード屋やレンタル店に通って名盤と呼ばれる音楽を手に取るいわゆるアナログな生活をしていましたが、自分のPCを手に入れたタイミングが丁度音楽配信サービス(サブスク前史)の黎明期と重なっていたこともあり徐々にデジタルな聞き方に流れていきました。デジタル・サブスクの出会いから音楽の聞き方が劇的に変わりました。

 

いつでも・どこでも・定額で、みたいな部分が強調されがちなデジタル・サブスクですが、僕にとって大きかったのは「音楽が文脈から切り離されること」と「圧倒的な量」です。この二つはつながっています。

 

アナログの持つスローなスタイルには、音楽雑誌やライナーノーツを読み込んで音楽史的、バンド史的な文脈を踏まえたうえで聞き込む態度、がしばしば含意されます。その盤を咀嚼した次は、記事の中で紹介されるほかの盤を聞くことで音楽体験が紡がれていく、ようなスタイルです。このプロセスには雑誌編集者、レビュー執筆者、ライナーノーツ執筆者等、情報を整理するキュレーターの存在が介在しているわけですが、無数の音楽が何らかのポイントにより選別・整流されリスナーに届けられることがこのスタイルの一つの特徴です。執筆者、編集者といった権威でなくとも、音楽に詳しい知人からおすすめされる情報が重要になるような、世界線です。

 

一方デジタル・サブスク時代はというと、こうしたキュレーションのフィルターがなく直接音楽そのものへリンクします。キュレーターが不在なので、かつては選別されていた音楽が無限に並列する、というのがサブスク時代の世界線です。とはいえデジタル・サブスクにも、選別・整流機能はあり、ただしそれは人間ではなくアルゴリズムです、人間の理性的な話法から音楽が語られるのではなく、無数のアクセス履歴から類似を提案される機械的なキュレーターです。音楽史、バンド史などから脱線するだけでなく、曲単位での視聴が可能なため、「盤」というフレームからも脱線します。気になる曲からアルゴリズムのレコメンドに従い、付加情報が少なく、限りなく無文脈に近い音楽体験が紡がれていく、これがデジタル・サブスク時代のファストなリスニングスタイルです。

 

(少し脱線しますが、いわゆるキュレーション的な文脈と異なる情報整流機能がmyspaceというすでに閉鎖した音楽配信サイトにはありました。人為によるキュレーションによらずとも、音楽のまとまり方は例えば「シーン形成」という形があり得ます。方向性を同じくするアーティストによる音楽コミュニティが形成され、そのシーンに飛び込むことで、音楽的広がりを得るような形です。こうしたシーンは国内外問わず無数に存在しますが、特に海外についてはなかなか可視化されません(それこそキュレーターによる紹介が窓口になる)。ですが、myspaceにはフレンド機能があり、シーンのバンドのアカウントを界隈的に表示することができました。偶然見つけた海外のバンドのページから、そのバンドが属するシーンが見えるようになっていた。この機能がとてもよくて、海外のミニマムなシーンを発見する材料になり、僕はそうした世界中の色んなシーンを発見するのが楽しみでした。)

 

またデジタル・サブスク時代は、情報量が膨大になります。膨大な情報量を前にしたとき一つのアクションは再びキュレーターを求めることですが(事実、音楽に限らずありとあらゆる分野でキュレーションの必要性が再認識されています)、もう一つはファスト化に適応する聞き方で、例えば速聴です。アナログと違い、デジタルは簡単にコマ送りができますし低コストなこともあり、多量を迅速にさばく処理に適合的な形態をしています。とはいえ、速聴だけしている人はまれなはずです。僕もそうですが、おそらく速聴のふるいにかけ、ひっかかる音楽だけ深度のある聞き方をしている。よくデジタル・サブスクのファスト性が批判されますが、ファストとスローは同居しえます。

 

また「いつでもどこでも」はデジタルの強みの一つです。ここまでデジタル時代の脱文脈性を書いてきましたが、多数に共有された正史的文脈が脱落する代わりに、個人的な文脈を付与しやすくなるのがこの「いつでもどこでも」です。実際僕の思い入れのある盤は、その当時ポータブルプレイヤーで聞いていた場所風景などが必ず想起されます。そのバンドや盤の「正統な」文脈はいまだによくわからないままですが、大きな影響を受けた音楽経験であることは間違いなく、またこの影響は「いつでもどこでも」によって音楽へ刻印されたパーソナルな場所性、文脈性に彩られていると思います。「いまここ」性が強く、また常にすでに文脈が書き込まれてしまっているアナログ文化ではなかった音楽の身体化だと思います。

 

僕はデジタルで育ったデジタル派なので、ここまでデジタルに肯定的に書いてきましたが、一方で限界も感じます。あまりにファストすぎるコンテンツは現時点での人間の認知的限界を超えるという点においてです。音楽が無限に存在することは、音楽を無限に身体化できるという事とイコールではありません。例えば、街のことをよく理解するには、車では速すぎ、自転車でもまだ速くて、徒歩くらいがちょうどいい、というような話に似ています。過剰なファスト性は、(人間の認知機能上限界であるような)適切な音楽の血肉化とバッティングする。ですが、すでに書いたようにファストとスローは同居しうるもので、車で走ることはそれなりの情報受容が、自転車で走ることはそれなりの情報受容がありうるわけで、徒歩がすべてというわけではありません。徒歩で散歩もいいよ、という話がありつつ、他に聞き方の選択肢が増えた。

 

多分、現代に必要なリテラシーはデジタルかアナログかの二者択一ではなく、車で走ったり、徒歩で散歩したりを往復する柔軟性なのだと思います。