①映画『四月になれば彼女は』を観て(途中からネタバレ)「愛の不在」 | 風ゆくままに~Windy Rhapsody~

風ゆくままに~Windy Rhapsody~

風ゆくままに、成るがままに・・
2021年より藤井風さんの音楽を聴くようになり
彼の音楽性、人間性、精神性に魅了される日々
風さんを中心にした音楽ネタを綴ります

2024/03/22
映画『四月になれば彼女は』
公開初日に観た感想を書かせていただきますね。
 
 
 
その前に、本日(3/27)YouTubeにて、マンスリートレーラー<March> <February>が更新されました!
 

(書きはじめは昨夜です、あしからず)

 

【3月】・・わたしは愛したときに、はじめて愛された

 

 

【2月】・・わたしたちは愛することをさぼった、面倒くさがった

 

 

 

あの時のわたしには自分よりも大切なひとがいた

辛い、苦しい、それでも人は恋をする

それはどうしてなんだろう・・

 

 

 

 

後わずかの命と知ったとき、わたしは旅に出ました。

 

10年に渡る愛と別れの物語『四月になれば彼女は』

 

 
 
 
 
映画を観た時点では、原作を読んでいないので、映画の物語が
私にとっての『四月になれば彼女は』です。
 
現在もまだ原作を最後まで読み終えていません。12月まで。途中です。
 
 
前回も書きましたが、私は現実派なので、映画を観ながら所々雑念が出てくる悪い癖?があり、自分でも少し困っています。
 
知る由もない移り変わっているであろう住所に手紙を出す?
メールではなく、手紙?
届かないかもしれない住所に?
不思議なことに,どうして届いちゃうんだろう?...とか、
 
どうしてここで音楽流さないのかな?
ここは絶対「満ちてゆく」がいる場所でしょ?
あぁ、盛り上がりに欠けちゃうよ~ぅ... とか、
 
もう本当に最低なひと。自分でも呆れるわたし。
 
 
ごめんなさい。
 
不快に思われる方は、どうぞ途中でご退室くださいませ。
 
 
 
映画を観るうえで、主題歌「満ちてゆく」は、私にとってはとても重要です。
 
そして、私の中でずっと気になっている風さんのワードがありました。それは「愛の不在」という言葉。
 
風さんが以前(3/11)コメントした中に
「愛の不在」を描いたストーリーに曲を添える・・という文面がありました。
 
私は「愛の不在って?」・・あまり聞き慣れない言葉。
どういうこと?分からないよ。
 
曲を聴けば分かるのかな?
映画を観れば分かるのかな?
原作を読めば分かるのかな?
と、ずっと考えていました。
 
そして、ようやく私なりの答えを導き出しました。
 
 

【藤井風 コメント】
愛の不在を描いたラブストーリーに曲を添えるというお話をいただき、これを機に人生で初めてラブソングというものを書いてみようと意気込んでいました。
しかし出来上がったものはこれまでずっと表現していたものの延長線上にありました。
始まりがあるものには終わりがあるということ。愛は求めるものではなく、すでにたくさん持っているもの。
与えれば与えるほど、「満ちてゆく」もの。

 
 
 
 
 
3月22日朝一番の上映時間10分前に席に着きました。
 
 
映画の始まりが、唐突?で(えー?もう始まってるの?)という不意打ちされるような始まり方で、こんな経験は初めてでした。あまりに唐突でした。
 
その前に流れていた宣伝や予告との境目がなく、いつの間にか『四月になれば彼女は』の本編が始まっていました。
始まってしばらくの間バックミュージック、サントラが流れることもなく、淡々と映像は進んでいきました。(いったように思います)
 
こういう所、どうでもいいじゃん!?
と思われるかもしれませんが、私にとっては、映画の最初が結構大事で、冒頭からグーっと入り込めるかどうかの心構えや集中力にも影響するキーポイントでもあります。
 
冒頭にその映画の大切な要素が詰まってることってよくありますよね?
 
そんな拍子抜け?不意打ち状態で、映画を観始めました。
 
 
 
ここからは、感想やら深堀りやら持論やら、ラプソディ的に書きます。
 
ネタバレNGの方は、ご遠慮くださいね。
 
 
ご訪問いただき、ありがとうございました。
 
 
 

 

 
 
 
 
【感想と深堀りと自論】です。
 
※途中もしかしたら記憶違い等あるかもしれませんが、その際はお許しください。
 
 
 
長文です。
長くなり過ぎたので・・(つづく)といたしました。
 
 
 
 
 
二人で暮らす新居選び、立派な神聖なる教会で結婚式の準備を進める男女。その関係性が分かる最初のシーンから始まりましたね?
 
弥生が教会のパイプオルガンを弾こうとした時、彼女が弾けることを知らず驚く藤代。最近弾き始めたという事を伝えていない弥生。既に同居しているにも関わらず。
お互いの些細なコミュニケーションさえ交えていない関係性。
付き合って3年だったと思いますが、既に2年のセックスレス。
 
その時点で「愛の不在」は始まっていたのでしょうか?
 
このままで結婚生活がうまくいくとは思えませんよね?
 
弥生は藤代の愛情を掴み切れていない寂しさを覚えている。
それはどうして?
弥生が自分の愛をすべて差し出せていないから。
 
藤代は心の底から弥生を愛している?愛していたの?愛せていなかったよね?
結婚する相手がそこにいる。いつも傍にいてくれる弥生がいる。安心感や当たり前になり過ぎた関係性。ときめきを忘れた二人。(誰しもそれは避けがたく、過ぎ去っていくものでしょう?)
 
ハルに寄せていた頃のキラキラした感情や想いとは、また違う大人の安泰の中に甘えてしまっているような、愛情のエネルギーが枯渇しているような・・ そんな風に見えました。
 
 
二人の記念のワイングラスが割れるシーン
ここでも二人の間に亀裂が入っていることを示唆していて、表面的には何も問題ないように見えるけれど、弥生の中ではもう答えは出ていたのでしょうね。
 
藤代に昔の彼女、ハルから手紙が来るようになったことを知った弥生は、藤代とハルがどんな恋愛をしていたかを知ることにもなり、
これまた表面的には平常心を保っているものの、心の中の葛藤や嫉妬や不安・・ 二人の間に欠落している何かを求められずにはいられなかったと思います。
 
ここでコミュニケーションを取らずに、体当たりせずに、藤代と真正面から向き合わずして離れていく弥生ですが、その気持ちは少し分る気がします。
 
何を考えているのか分からない、掴みどころのない今の藤代とは、恐らくこの感情をぶつけ話し合ったたとしても分かり合えない。弥生の本当の気持ちは分かってもらえない。と思うから。
 
 
では、大学生だった頃の藤代はどれだけハルを愛していたのか?ハルは本当に藤代を愛していたのか?
ごめんなさい、私は藤代とハルの関係は「愛」ではなく、「恋」だと思っています。学生時代の初恋のような淡い恋。
 
本当に心の底から愛し合っていたのであれば、藤代はハルをあのような形で手放しただろうか?
またハルは藤代を選ぶことなく、異常な愛で娘を縛り付ける父親の側にいることを選択しただろうか?でも、父と離れることが出来なかった。
藤代との海外旅行を断念し、父親を選んだ。それがハルの選択。
 
「あの時のわたしには自分よりも大切なひとがいた」
 
自分の本当の気持ちを優先することができなかった。
自分より大切なひと・・父親なのか、藤代なのか・・
 
ハルは、どんな思いでそれを決意したのかな?それを想像すると、胸が張り裂けそうになるくらいハルは悩み苦しんだと思います。
 
幼少期から母親に変わって、側にいて育ててくれた父親。崩れていく父を支えようとする娘ハル。勿論見放すことなど出来ない。いい知れない親子関係。そこには誰も介入できない親子の愛情がある。たとえ歪んだ愛情だったとしても。
 
最終的には、ハルはフジに対する愛情より親子の愛情が勝さってしまったということなのか?それとも、フジをこれ以上、私の苦悩の渦に巻き込むことはできない、という思いやりだったのか?
 
これは疑問が残りますが・・
 
ここは本当に一番辛いところで、学生の身である若い二人にはどうすることも出来なかった。(多分)
 
ハルの父は(ハルが小学生の時?)妻に好きな人が出来ていなくなってしまったという経緯から、娘に執着し異常なまでの愛情で娘を束縛する。精神的な病いで、ハルが居ないと「苦しい」と言う。

それを知った藤代は、ハルをそこから救い出したかったはず。そのためにも海外旅行を計画したはず。それならなぜ、出発日の待ち合わせは空港だったのだろう?二人の最寄りの駅とか、前日は藤代の家に泊めるとか、もっと確実な手立てをしなかったのだろう?と思うわけです。
 
まぁ、それをしたところでハルは出発直前に「私やっぱり行けない。お父さんを置いて行けない」と決行できなかったかもしれませんが。
 
いずれにしても、ハルは空港に荷物を持って来ませんでした。
ハルが先に「別れ」を決心した、ということですよね?
フジを好きなのに。「好き」という気持ちを残したまま。
 
その時、藤代は何もできなかった、自分の無力さに打ちひしがれて、その別れを受け入れることしかできなかった。そんな離別に泣いた。ハルのことを好きなのに。「好き」という気持ちを残したまま。・・お互いが、共に手を離した瞬間です。
 
ハルが途中下車する、電車のドアが閉まる。何もできない。ホームに立つハルの姿が小さく消えていく。藤代はただ立ち尽くす。下車後のエスカレーター、上り切った所で泣き崩れるシーン。
 
ここで、私は0.3回泣きました。(本泣きの3分の1くらい)
 
ここはクライマックスシーン、音楽が欲しかったです。
「満ちてゆく」ではダメなの?と思いました。(歌詞が合わない?)
 
(よく覚えていないのですが、ここは音楽流れていましたか?どんな音楽でしたか?)泣いちゃったし、あまり覚えていません。
また次回、観に行った時確かめなければ・・と思います。
 
 
風さんと川村元気さんとの対談では、風さん曰く『クライマックスシーンでは、パイプオルガンのサウンドトラックが流れていた』と。。。要確認ですね!(笑)
 
 
 
この日から、二人の心の中には大きな穴が開いていたと思います。虚無感、喪失感、なんとも言えないこんな大失恋ともなれば、人生の中で何回恋をするか分かりませんが、相当なダメージを受けたと想像します。
 
「愛の不在」があるとしたら、こういう所なのかな?と。
 
もう少し大人になってお互い本当に「愛する」ことができていたら、また違った選択があったのではないかと思います。
 
なので「愛」ではなく、儚くも「恋」だった。(のかな?と)
 
二人にとって辛い辛い別れだったことには違いありません。
 
 
ここで二人に空いた心の穴は、塞がれたでしょうか?
塞がれたとしたら、どうやって穴は埋まったのでしょうか?
 
これは、二人とも塞がらないまま10年間を過ごしたのではないでしょうか?その大きな心の穴こそが「愛の不在」なのかも?
 
人を思うように愛せない。昔の煌めくような気持ちは再来しない。それは同時に、自分を愛で満たせていない。心の穴を埋められていない。・・ゆえの「愛の不在」なんじゃないかと。
 
その結果として、
ハルが自分の命が短いと知った時、一番輝いていた自分を「愛の不在」を取り戻したかった。その頃の自分に会いたかった。
 
「あの頃のわたしに会いたかった」
「あなたが好きだったわたしに」
 
心の穴に一つ一つ欠片を埋めていくように、ハルは写真の旅に出て、あの頃の真っすぐでひたむきだった恋心(愛なのかな?よく分からなくなってきた)を確かめていく。振り返っていく。
 
心の穴を埋めていく作業をする中で、段々と見えてくる。そして自分を愛で満たしていく。ハルはこうして命を削りながら、気づきを得て藤代に伝えたいことがあると。手紙を書くことにした。死ぬ前にどうしても伝えたかった。
 
「あなたの側にいる人を愛してほしい。愛していることを願っています。」と。←(言葉は違うと思いますが、こんな感じのこと)
 
 
 
ハルには恐らく、その後父親との別れがあったでしょうね?
ハルより早くに星の世界に帰られたのではないでしょうか?
 
そうでなければ、ハルは一人で海外へと写真の旅をすることができなかったと思います。それに、ハルが死を迎えた時、お父さんの存在は一切出てきませんでしたよね?
 
藤代とのキラキラしていた時間を忘れることが出来なかったハル。
誰かを好きになる、恋をする、幸せな時間を過ごす。でも続かない。変わりゆく。
「辛い、苦しい、それでも人は恋をする」
「それはなぜなんだろう?」
 
言葉にするのは難しいですね。
 
でもそれは、人を好きになるから。
心の底から感情が沸き上がるから。
好きになれる人に巡り合えたから。
 
一生のうちで、誰かを好きになって夢中になれる人って、一体何人いるでしょうか?・・そんなそうそう居ませんよね?
 
一人も好きにならない人さえいます。(私の友人でも)
好きと思える人に出会わなかった。巡り合わなかった。恋をしなかったといういう人です。
 
人を好きになる、恋をする、素敵な人に巡り合える。
これって素晴らしいことですよね!!
 
相手がいれば、思い通りにならないことが必ずあるし、辛い苦しい試練も抗えない。それでも乗り越えようとする。それが恋(恋愛)であり、人として成長する糧とか、運命とかなんだと思います。(神様が準備したことなんじゃないかな?)
 
ハルちゃんは、そういう人に巡り合えたのです!
 
でも、その恋は手に入らなかった、
納得して後悔しない形で終われなかった・・ということなのかな?
だからもう一度「あの頃のわたしに会いたかった」「あなたが好きだったわたしに」という気持ちになったのかな?
 
 
 
一方で、
「愛を終わらせない方法、それは何でしょう?」
 
そう言い残して家を出て行った弥生ですが、これはあくまで弥生の恋愛論のような思考であって、藤代が同じように思っているかどうかは分かりません。
 
愛を終わらせない方法は「手に入れないこと」
 
これって、逆に考えると
手に入れない=自分のものにしない
自分のものにしない=距離をおく
ということなのかな?
 
二人の間に程よい距離感を保って愛を育むという意味なのかな?
 
私には少し難しいです。
「愛を終わらせない方法」とかって・・
こんなに理論的に、難しく考える必要あるかな?
 
これから恋愛しようとする若い人たち、混乱しませんか?
 
Don't Think, Feel !!!!!!!!!
考えな、感じろ !!!!!!!!!
 
と言いたいです。
 
 
私は、どちらかというと
「愛する」ことを諦めないで、手に入れる。
しっかりちゃんと手に入れて、その結果終わりがくることがあるのであれば、後悔しないでちゃんと終わりを迎えたほうがいい。
そのほうがすっきり手放すことができる。という考え方。

その反面、夫婦生活を営む上では、全てを「手に入れない」で一定の距離を保つほうが長く続くのかな?とか・・これは悩ましい課題です。
 
愛の形には色んな形があって、それぞれ違った形を形成すれば良いのではないでしょうか?
 
ですが、強いて言えば・・
もし私が「愛を終わらせない方法は?」と聞かれたら、
今の私なら、
「自分の中の愛に気づくこと」と答えるかもしれません。
 
「愛することを持続すること」もしそれができなくなったら、
「愛情の愛よりも、情を失わないこと」
 
結局のところ、「終わらない愛」の究極は、見返りを求めない「無償の愛」なのだと思います。「母性愛」のような。
 
「満ちてゆく」のミュージックビデオがその象徴なのかもしれません。
 
だって、自分の子どもには「無償の愛」をいくらでも注げますから。決して終わりはありません。
生きている限り、その愛は永遠に続きます。その自信があります。「全て差し出す」ことができます。
 
どうして?と、もし聞かれたら
それは自分の中にあるものだから、持っているものだから、としか答えようがありません。
 
そうでなくても人は「やがて生死を超えて繋がる」そう信じて生きていけばいいのだと。
 
 
 
 
ハルと最後までしっかり向き合わないで別れてしまった藤代。今度は弥生を苦しめている。なぜそうなったか?気づくのに時間がかかりましたよね?
 
恋人の気持ちを理解してる?そうでなくても弥生は、働き過ぎの仕事人間で精神的に医療の助けを借りながら社会生活を送っている。藤代との恋愛にいつも寂しさを拭えないでいる。愛されているという実感が持てないでいる。藤代はそれに気づいていない。気づこうともしない。それはなぜ?
 
藤代もまたハルと同じで、ずっと心の穴を埋められずに過ごしてきたのではないか?・・「愛の不在」を抱えたまま生きてきたのではないか?
 
お互いに手を放したあの時から、二人の「愛の不在」が始まっていたのかなぁ、と。

だから藤代は弥生のことを心の底から愛することができていない。それはつまり、自分の中の愛に気づいて、自分の愛を満たしていないから。
 
それを気づかせてくれるのは、ハルの手紙ということになりますが、そこに至るまでには時間がかかりましたね。
 
藤代と弥生・・
 
映画で観る限りでは、二人のセックスはどこかぎこちなく見えました。まだ最初の頃の設定だからそういう演技だったのか?よく分かりませんが、付き合って一年後には触れ合わなくなります。
 
「わたしたちは愛することをさぼった、面倒くさがった」
 
という言葉が物語っているようにも思えます。
全てにおいて真剣に向き合ってこなかったということでしょうか。
 
でも・・・
 
「愛を感じないセックスならしないほうがまし」と私は思います。
ちょっと脱線しますが、一方だけが満足するようなドライな重なりは要らないし、「愛すること」「愛されること」「愛し合うこと」の大切なコミュニケーションにならなければ、そこにはいずれ亀裂が入ると思います。
 
 
本当は・・本質は違うと思いますが、この
「わたしたちは愛することをさぼった、面倒くさがった」
という意味は、そこにも一理あるのかな?と思いました。
 
 
タスクが藤代に言った
「人間ってのは憎んでいる人より、そばにいて愛してくれる人を容赦なく傷つける」この言葉も、それに繋がるのでは?と。
 
 
 
 
 
あら?気がつけば私・・何を書いているのでしょうか・・汗
 
 
ちょっと頭を冷やします。ごめんなさい。
 
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
段々書いている内に収拾がつかなくなってきました。
いつものことですが・・
 
まだ私の感じていることがあります。
どうしても書きたいことがあります。
 
ですが、エネルギー切れです。ごめんなさい。
 
つづきは、また改めて書かせてください。
 
 
本当に、改めて
若干26歳の藤井風という人の才能?人間力に驚きが隠せません。
 
 
こんなラプソディ的な取り留めのない長文を最後までお読みいただき、ありがとうございます。ご訪問ありがとうございました。
 
 

 

 

MV(↑)なんか・・一つ一つの画面ショットが大きくなっているように感じるのですが、私だけでしょうか???(錯覚かな?)