今日は 「原三溪のお茶事シリーズ」の締めくくりです

三溪園南門付近⬇
以前はここまで海でした。

今回は重要文化財『春草廬』が屋根葺きの改修工事で見れませんでした。
が、実はこの 『春草廬』、いわくつきなのです


この『春草廬』は桃山時代に、織田信長の弟・織田有楽が国宝 如庵を完成させる前に設計したお茶室で、茶室内に9つの窓があることから、「九窓亭」と呼ばれてました。
『春草廬』は、もともとは『月華殿』(『その2』参照)に付属していたお茶室でした。
本来『臨春閣』(『その1』参照)に付属していたお茶室の名前が「春草廬」だったのですが、三溪さんは、横浜港に着いた『臨春閣』を船上げする際に、付属のお茶室には目もくれずそのまま船に残し、松永耳庵に譲ってしまったのです

そして、『月華殿』に付属していたお茶室に改めて 『春草廬』という名前をつけたのでした。
松永耳庵は、今の東京電力の前身を作り「電力王」と言われた実業家であり茶人でもあります。
耳庵に譲ったお茶室が、今、東京国立博物館のお庭にあるお茶室「春草廬」です。
(大声では言えませんが、「 いらないお茶室は人にあげちゃって、自分のお眼鏡にかなったお茶室を使おう」、といった所でしょうか

三溪さん、おそるべしです


三溪さんは、早稲田大学卒業後、跡見女学院の教師をしていましたが、横浜の大商人・原家へお婿入りし(逆たまですね

また、茶人でもあり、美術の収集家としても知られています。
三溪園を作るにあたり、自分で建物を配置し、木の一本一本、石の一つ一つを自分で
探し選び、配していったそうです。
その審美眼はどこから来るのか。
三溪さんは、幼少のときから、父から茶道を習い、南宗画家の娘である母から絵の手ほどきを受け、その後も絵の勉強を続けたといわれています。
もともとの資質もあるかと思いますが、やはり、子供の頃から茶道や絵などの美に触れていたことは大きな影響を三溪さんに与えたのでしょう。
子供の頃から本物の美に触れることは大事ですね

この広大な17.5haの自然をカンバスに見立て、『三溪園』という壮大な絵を描いたと言えるでしょう。
しかも、三溪さんは実際にここにお住まい
だったのですから、なんともうらやましい~


