Wikipediaより
中島知久平。
戦前の軍事史においても、経済史においても、政治史においても、
必ず名前が出る、いや、重要人物として特筆される巨人である。
1884年(明治17年)群馬県生まれ。
1903年(明治36年)海軍機関学校入学(15期)
在学中に飛行機に関心を持ったとされる。
ライト兄弟による世界初飛行が1903年だから、当時の情報伝達速度を考えると
驚異的な先見の明と言えよう。
1917年(大正6年)飛行機研究所設立。海軍は予備役編入。
海軍では飛行機関係の部署を歴任しパイオニアの一人となったが、
組織の限界を感じ、退官して自ら飛行機製作の会社を立ち上げた。
会社はのちに中島飛行機となり、日本を代表する航空機メーカーとして
一式戦闘機「隼」、四式戦闘機「疾風」などの優れた名機を送り出すことになる。
1930年(昭和5年)衆議院選挙に初当選。
政治家になった理由は
地元の人に懇願されたためとか
持論である空軍の設立を政治の立場から実現するためとか
諸説あるようだが、政治家となった後は立憲政友会に入党し活躍していく。
1938年(昭和13年)鐵道大臣として入閣
1939年(昭和14年)政友会革新同盟総裁に選出
ついに2大政党のひとつのトップにまで登り詰めることになった。
ただ、時代的な背景や党が分裂していることから、
政党人としての評価はなかなか難しい。
1945年(昭和20年)A級戦犯指定(1947年(昭和22年)解除)
1949年(昭和24年)死去
中島の伝記のひとつに「軍人、飛行機王、大臣の三つの人生を生きた男」という副題を持つ本があるが、
まさにそのとおりの波乱に富んだ生涯だった。
さて、クイックさんも書いておられるが、
日本近代史上の巨人である 中島知久平
と、
申し訳ないが石川県の極めてローカルな隧道に過ぎない地代隧道
とは、どうしても結びつかない。
果たしてどんな縁が両者を結びつけたのか、考察してみたい。
まず海軍。
揮毫を頼めるような関係ならまず同期かな?と思って調べてみた。
機関学校の同期に石川県出身者は2名いるようだ。
このうち氏家長明機関中将は加賀藩士の家柄で、逆に田近地区との縁はなさそうである。
もう一人の大津秀男機関大佐はどういった方なのかよくわからなかった。
その他にも石川県出身の海軍士官はたくさんいるが、さすがに一人一人調べるのは不可能だった。
次に陸軍。
中島飛行機は軍用機を生産する以上陸軍とも縁が深い。
石川県は「加賀陸軍」と言われたほど多くの将官を輩出し
特に佐藤賢了中将は旧花園村(ただし今町)の出身である。
だが、昭和13年当時はまだ中佐であり、しかも3月に有名な「黙れ」事件を
起こしているので、政党人でもあった中島とは相容れないだろう。
その前に、石川県なら首相も務めた林銑十郎大将など陸軍部内で揮毫を頼めそうな大物がたくさんいるので、わざわざ中島に頼んだりはしなさそうである。
中島飛行機。
航空機産業は巨大な裾野産業を持つので下請け会社、協力会社の数も膨大なものになる。
中島飛行機の工場は東京や群馬だったが、石川県にそういう会社があってもおかしくはない。
ただし、田近地区あるいは花園村にそういった会社があったかどうかはわからない。周辺では隣りの森本村に石川製作所という会社があったが、おそらく海軍関係の軍需物資の生産がメインで、航空機関係ではなかったようだ。
鉄道大臣。
鉄道大臣は陸送業も管轄していたようだが、道路の管轄は内務省であったと思われ
職務として揮毫したということはなさそうである。
最後に政党。
金沢を中心とする石川1区において、昭和13年時点で政友会から当選していたのは
箸本太吉という人である。
ただし、この方はもともと万朝報という新聞社の人であり、
中島知久平との関係はよくわからない。
政友会中島派のリストでもあればよかったのだが、調べた限り見つからなかった。
この考察をしてみたくて地代隧道に挑んだのだが、
こうやって試考錯誤(誤字にあらず)するのは楽しかった。
ただ机上調査と呼べるような根拠のある成果は得られなかったので
考察(妄想)編として試考の過程だけ記録した。