名著のすゝめ -2ページ目

自作の創作公開「殉 愛」





          第 十二 回 目





 新米であるらしく、奥で誰かに確かめてきたボーイが、ひと月前までは確かに若い女性のピアニ

ストが、通って来ていたが、その後は契約が切れてしまったのかどうか、はっきりしないのだが、

今月に入ってからはまだ一度も姿を現わしていない、と告げた。手掛りをすっかり失ってしまった

ような、まだ一縷の望みが残っているような、実に頼りない気持ちだった。が、あの旋律を弾くピ

アニスト以外には、謎の女性の正体を突き止める手段を持たない彼は、まだ諦めるわけにはいかな

かった。あの夜から、ぷっりと電話のベルが鳴らなくなってもいたので。電話の女性と、ピアノの

女性が同一人物であるという、保証は何もない。二人は縁も縁もない別人であるのに、かれが勝手

に同じ女性であると決め込んでいる、可能性の方が、冷静に判断すれば強いであろう。たった一度

だけ、電話の向こうから聞き覚えのあるメロディーが響いてきたからといって、短絡的に判断する

のは迂闊であり、早計に過ぎる。そう囁いているもうひとりの自分の声も、彼の耳に達していたの

であるが、もうどの様な理性も、冷静な判断力も及ばない、激しい狂気の嵐に、完全に飲み込まれ

てしまっていた。そうして絶望に絶望の思いを重ねながら、二週間経ち、三週間目が廻って来た。

彼は夢遊病者のように深夜の地下鉄を降り、六本木の交差点近くを狸穴の方向に向かっていた。十

字路の対角線上の信号を、彼とは反対方向に渡ろうとしている人影に、眼が止まった。並んで歩い

ている人波の間から、ほんの瞬間だけ見えたのだから、はっきり断定できないのだが、その額から

顔の前面に垂れ懸かっている、長い髪の具合が、どうもあのピアニストのように感じた。面と向き

合って顔を見たとしても、碌に顔の特徴も覚えていないのだから、その女性だと確認することは出

来ないであろう。それが、遠くから夜目で、ちらりと見ただけで、どうして当人だと分かるのだ、

と誰かにその時質問されたとしても、彼は返答に窮した筈だ。しかし不思議な勘が働いていた。信

号の変わるのももどかしく、慌ててさっきの女性が消えていった辺りを、目で追いながら後戻り

し、反対側に息を弾ませながら渡る彼の心には、とうとう目指す相手を探し当てた嬉しさと、再び

姿を見失うのではないかという不安だけしか無かった。防衛庁の門の前を通り抜けて、乃木坂方面

に抜けていく後ろ姿を、確かに目にしたように思った。


 が、そこから先の女性の行方、その辿った道は皆目見当がつかない。彼は同じ道を行きつ戻りつ

し、とうとうむ


かつくような臭気の漂った、狭い路地裏に突き当たって、途方にくれてしまった。その時、どぎつ

い香水の匂いが、ぷんと鼻を襲って、「お兄さん、若い女性を探しているのでしょ」、耳元で女の

嬌声がおこった。不意を衝かれた彼が何気なく頷くと、忽ち腕を抱きかかえるようにして、近くの

薄暗い店に連れ込まれてしまった。遅まきながら事情を察した彼が、絡みついている女の腕を振り

ほどいて、店を出ようとした刹那に、或る物の影が彼の眼の中に飛び込んできた―。



 …… 奴さん、一体何を見たのだと思う。それがさ、奥に架かっていた小さな、四号くらいの絵

なんだって。それで、僕がその店に入った時、彼はあの余りにも場違いな所で、カウンターの前の

止まり木に腰を下ろして、放心したようにぼんやりと、目の前の安っぽい額縁に納められた絵を、

眺めていたって訣なのさ。「そんなにいい絵だったのかい?」、僕が訊くと、奴は首を横に振っ

て、「実に下手な、水彩画だった」と言うのさ。それじゃあ何でもの好きに、そんな代物を見てい

たのかと質問すると、その絵に描かれた女の面影が、捜していた女性ピアニストに似ているような

気がしたからだって、答えるのだ。僕の方は、それがどんな絵だったのか、それよりも何よりも、

あそこの店に額縁の絵が飾ってあったことすら、気づかなかったくらいなのだから、何とも言いよ

うがないのだが、あんな種類の店だから、どうせ大した代物ではないだろうくらいな、見当は容易

につくわけなのだ。



自作の創作公開「殉 愛」

   第 十一 回 目





 辛うじて聞こえるBGM、レコードか、それともラジオから漏れているのか…。しかもそのメロデ

ィは明らかに、聞き覚えのある一節だった。


 電話を終えた後の眠りの中でも、彼はそのメロディのことばかり考えていた。遠い昔に、母親の

胎内で聞いたものの様にも、ごく最近、どこかのアルバイト先で聞いたようにも、思われる。あの

時刻、あの音楽…。その日の夕方、仕事に向かう途中の駅で、コートの衿を立てホームに吹き荒れ

る寒風に身を曝しながら、電車を待っている折に、彼はとうとうその旋律を何時、何処で聞き覚え

たのかを、ふと思い出したのだ。三年程前、一時体を壊して過酷な肉体労働に耐えられず、二ヶ月

近く友人の紹介で、クラブのボーイをしたことがあった。暮を前にした秋から初冬にかけてのこと

だと記憶している。彼の主義としては、その種の歓楽を事とする夜の職場には、譬え一時のアルバ

イトと言えども、足を踏み入れたくはない気持ちであったのだが、その際は止むを得ない処置であ

った。店は深夜から明け方までの営業だったから、時間さえ気にしなければ、身体も楽で比較的割

の良い報酬が貰えた。その店には小さなフロアーがあり、ピアノやその他ちょっとした演奏なら出

来るだけの楽器も、揃っていた。常時いる演奏者以外に、週に一度か二度、それも閉店間際の、明

け方の一時間ほど、若い女性のピアニストが通ってきた。勿論、彼はその女性の名前は愚か、顔さ

え知らない。いや、敢えて知ろうとしなかったのだ。彼がその店で顔馴染みになり、名前も覚える

ことが出来たのは、その店の経営者の遠縁でレジ係りをしていた、中年の女性だけだった。厚化粧

をしない清潔な面差しが、彼の一番上の姉に似ているせいもあって、例外的に親近感を持ったの

だ。例の週に一二度通ってくる女性ピアニストにしても、髪に毛の長い、若い女性だったことぐら

いしか、記憶にない。若いといっても、十代なのか二十代なのか、それとも三十歳を越えていたの

か、あるいは又、その顔がどの様な特徴を持っていたのか、全く覚えていない。唯そのピアニスト

が必ず最後に弾く、耳慣れないメロディーが、僅かに印象に残っていた。


 音楽にはさっぱり疎い、音痴に近い彼が何故その曲に心惹かれたのか、自分でも分からなかっ

た。ただ駅のホームに立って、寒さに震えながら、その旋律の一部を故郷の海岸で聞いた、潮騒の

ように懐かしく思い出した時、彼はその曲を聴きたくて密かに彼女の来るのを心待ちにしていた、

当時の自分の心情を認めないわけにはいかなかった。


 彼がその日どんなに心躍らせて、夜が更けるのを待ったか。そして開店の時刻が近づくと、その

クラブのある六本木のビルのエレベーターを登ったか、想像に難くないであろう。しかし、三年ぶ

りに訪れたその店は、以前とはすっかり様子が変わっていた。レジの女性も、ホステス達も、そし

て勿論バーテンダーもボーイも、一人として同じメンバーはいなかった。もしかしたら、経営者す

ら違ってしまったのかも知れない。彼は途方にくれた。しかし、すっかり様子の異なった店内では

あったが、あのピアノの置かれている一角だけは以前のままであった。彼はそれを見て救われたよ

うな気がした。あのピアノがある限り、あのメロディーを弾く、髪の長いピアニストは姿を現す可

能性がある。誰か店の者に確認すれば、直ぐに知れることだったが、はっきりした答えを訊き出す

のが怖かった。もしも答えが「否」であったら、そう考えただけで呼吸が途切れ、目の前がまっく

らになった。二日、三日……、六日目に彼はとうとう我慢ができなくなり、ジュースを運んできた

ボーイに恐る恐る尋ねてみた。新米であるらしく、奥で誰かに確かめてきたボーイが、ひと月前ま

では確かに若い女性のピアニストが、通って来ていたが、その後は契約が切れてしまったのかどう

か、はっきりしないのだが、今月に入ってからはまだ一度も姿を現わしていない、と告げた。


自作の創作公開「殉 愛」




         第 十 回 目



 

 昼過ぎ、彼が本当に眼を覚ました時には、既に夕方近い冬の日差しが、弱々しくカーテンの隙間か

ら漏れていた。直ぐに、あの電話のことを思い浮かべた。あの女性は一体誰だったのか?感じでは

大分長時間話し込んだようであるが、不思議なことに、話の内容は何ひとつ覚えていない。とする

と、やはりあれは夢の中の事だったのか。が、彼がいくら夢を見たのだと、自分に言い聞かせよ

うとしても、心の片隅では、それを否定する声が、頭を擡げていた。夢でないとすると……、その

先は彼自身にも、皆目見当がつかない。で、それきりであったなら、彼もそれ以上の穿鑿はしなか

ったであろう。その夜、仕事に出かける際には、その事を半ば忘れてしまっていたのだから。とこ

ろが、その翌日から、夜と言わず昼と言わず、アルバイトから帰る彼の時間を見透かしたかのよう

に、連続して枕元の電話のベルが鳴った。受話器の向こうから伝わってくる声の主は、必ず同じ女

性のものであった。その度毎に彼は、その見知らぬ女性と長時間話し込んだ。そして話し終えた後

では、何を夢中になって話していたのか、忘れていた。それでいて、彼の心は得も言われぬ嬉しさ

と、満ち足りた想いで一杯だった。理由も分からない幸福感で、はち切れんばかりであった。しか

しふと、黒い恐怖を伴った不安の翳りが、胸を掠める瞬間があった。彼女は人違いをしているの

だ。何かの偶然で、自分の所に電話が掛かってしまったのだが、彼女はそれと気づかずにいる。し

かしやがていつかは、その勘違いに気づく時があるに相違ない。彼は電話の途中で何度か、相手に

名前を訊き、自分は橋爪三郎だと名乗りたい、衝動に駆られた。その都度、夜の暗闇を前にして尻

込みする幼子の様に、怯え、実際に自分の手で、慌てて口を塞いだ。そんな己の卑劣な心根が、お

ぞましくも感じられた。しかし、その美しい女性との(― 彼は勝手にそう決め込んで露疑わなか

った)楽しい会話の時間を、貴重で、夢のような一時を失うことは、何としても出来ない思いだっ

た。既に、それほどまで強く、魅了され尽くしてしまっていたのだ。しかし、彼女はうっかりした

間違いに気附いて、彼のところに電話するのを、止めてしまうかもしれないのだ。その時のことを

想像しただけで、彼の心臓は殆ど止まるのではないかと、危ぶまれた。一体、どうしたらよいの

だ。先方にそれと気取られない、巧妙な手段で、彼女の居所なり、電話を掛けてくる場所なりと

も、見当がつかないものであろうか?そう考えた瞬間から、彼は懸命に全神経を耳に集中し、受話

器の向こうから聞こえて来るどんな気配も、聞き漏らすまいと気を配った。


 しかし、彼がどんなに注意深くしても、相手の所在を知る手掛かりは、容易に発見できなかっ

た。彼女は同一の場所から電話してくる模様なのだが、そこは密閉されたマンションの一室か、郊

外の宏壮な住宅ででもあるのだろうか、騒音らしい物音一つ聞こえてこない。彼女の低く澄んだ、

こちらの耳底を心地よく擽ぐるような優しい声が、深い深い静寂の淵から立ち上って来る如くに、

響くだけ。彼は絶望し、更に一層彼女との電話での逢瀬の数十分に、惑溺した。その狂気の様に錯

乱した心の中には、或る確信が生まれていた。「彼女に一目会えさえしたら、あの絵を見事に完成

させることが出来るのだが…」と。いつの間にか彼は、完成の一歩手前で投げ出されている自分の

絵を、目の前に据えて電話するようになった。彼女の声を貪るように聴いている裡に、何かインス

ピレーションか、霊感のようなものが働いて、その何度も塗り潰し、ヘラでこそげ落として空白に

なっている部分に、然るべき美しい女性像が、浮かんで見えるかも知れない。そんな虚しい願い

に、無駄と知りつつも縋っていた。仕舞には絵を完成させたいのか、その女性に会うのが本当の目

的なのか、自分でも判断がつかなくなっていた。


 所が、ある時彼女と話し込んで気がついてみると、部屋の外の気配で、暁が間近であることが

知れた。もう二時間以上経過してしまったのであろうか。そう思って受話器を耳に当てながら、室

内の灯りを消し、カーテンを静かに開けて外の景色を覗った。辺はまだ真っ暗であった。霜柱が立

っているのであろうか、弱い街灯の灯りに照らされた、空き地の赤土が所々白く輝いている。最初

はてっきりその白い霜の光が、疲れた眼に音楽を感じさせるのかと疑った。事実、蓄積された疲労

と、重苦しくのしかかる睡魔の発作が、さっきから彼の耳底に、断続する金属音に似た幻聴を与え

てもいたのだ。しかし、その不快な耳鳴りを掻い潜って、ほんの微かな旋律を伝えてくるのは、間

違いなく受話器の中だと解った時、彼は思わず「あっ」と声を上げそうになった。