指崎城
湯山城の南東約2㎞に位置する
『氷見の山城』(1)では、縄張に見られる食い違いの防御線に注目し、天正4年(1576)9月に謙信が湯山城を攻めた際の陣城と推測している。その喰い違い構造とは、北端堀切と、堀切よりも主郭よりに喰い違い降る竪堀で、その竪堀は内側に土塁線を沿えている。北端土塁上からの横矢を意図したプランと推定している。
また、佐伯哲也は、郭ほぼ中央南東部を平虎口とし、上述の防御ラインと平虎口の存在から、16世紀後半の築城、天正6年謙信死去以降の上杉勢と反上杉勢との抗争の中で構築されたと考えるのが妥当であろうとしている(2)。
佐伯先生は、築城時期を2年ほどくだるとみているようだ。
郭北東部
端に土塁を設け、堀切、土塁付き竪堀とで構成する防御ラインを監視する
北東端土塁
土塁上
で、肝腎の土塁付き竪堀は、よくわからなかった…
明確に行動を遮るような構造物は、2022.3では、ない?
斜面下方のそれらしきもの
南東下方から北東端土塁と堀切
北東堀切
北東から堀切越しに指崎城
土塁上から郭内
右は(北西)は湯山城を望む急斜面で、北部に土塁を設けている。
左(南東)は緩斜面のため、切岸で守り、佐伯先生が平虎口とする出入口を設けている。
北西面北部土塁
湯山城方向
北西急斜面
南東面ほぼ中央
佐伯先生が平虎口とするのは、これか
南東切岸
登り口
鳥内鉄工所様にお話しし、山際の道から入り、南東斜面に取付いた。
鳥内鉄工所様と山際との道
約10分で到達。
註
(1)氷見市教育委員会(2001)『氷見の山城』、北日本印刷株式会社、pp.67-70
(2)佐伯哲也(2013)『越中中世城郭図面集Ⅲ』、桂書房、p.21