白河城
佐伯哲也(2013)『越中中世城郭図面集Ⅲ』によれば、東麓を石動山に至る長坂道が通り、延文4年(1359)得田章親代大隅貞章軍忠状に、前越中守護井上暁悟方が守る白河城が記され、能登勢により攻略されたという。
城の東、石動山方向
南北朝期の史料が残るが、佐伯先生は、二重の堀切・二重の横堀は戦国末期の遺構であり、さらに縄張全体が矛盾なくまとまっていて、部分的な改修の痕跡は見いだせないことから、戦国末期の遺構であるとする。
小規模、かつ未整形部分も残ることから臨時城郭と推定、枡形虎口等が無いことから織豊系武将の構築は否定し、天正10年前田利家との抗争にあたり、石動山が構築した臨時城郭という仮説を提起している。
私も、南北朝期であれば、このような小城郭に、このような普請は施さないと考える。
ただ、築城勢力を石動山とまでしぼりこんでいいものか、私は思案中である。
白河城域
(南端から)
郭内(南から)
削平は甘い。
郭南部(北から)
郭内から南方の防御
堀
出入口ははっきりしないが、やや東寄りの堀の切れたところか
南東にひと平場あり
井戸状の窪
東は、上部は切岸を削って壁を巡らし、下方は登坂不可能な急傾斜面
西は横堀を巡らす
横堀下方に古道が沿い、その下方の暗いところは、百閒馬場とよばれる平坦面
百閒馬場
軍勢の収容が可能である。
郭内北部
一段高く、後背に土塁を備える。
土塁の裏は西の横堀と東の切岸とを繋ぐ堀切で、さらに北にもう一本尾根を堀切り、二重に遮断する。
北土塁裏
二重堀切
手前が横堀(左:西)と切岸(右:東)とを繋ぐ堀切で、奥がもう一本の堀切。
一重目
東は切岸と繋がる
二重を造作する畝
二重目堀切
一重目堀切の西は横堀と繋がる
沿う古道と横堀
登り口
白川集落の東端に白河城入口の標柱あり
住宅の裏に登って右手、お墓の東に山道あり
東際の山道
途中できれるが、登っていけば到達する。
(私は道がわからず、竹などの藪を直登した:城域まで20分)
山道を行けば、私の半分くらいの時間で至るのではないか。
参考文献
佐伯哲也(2013)『越中中世城郭図面集Ⅲ』、桂書房、p.9