神代城(富山県氷見市神代) | えいきの修学旅行(令和編)

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神代城(一年前の2020.12撮影)

小さい城ですが、切岸と堀が鋭く、強固な城です。

 縄張図を富山県中世城館遺跡総合調査報告書(1)より引用し、茶番号・線を加筆した。

 佐伯先生(2)は、3を土橋を防御する馬出と評価している。また、西は飯久保城に約1km、東は堀田城に約500mと近接し、西の尾根筋に遮断線が無いことから、飯久保城との親密性を指摘し、飯久保城の支城とする仮説を提起している。

 私は、飯久保、堀田に近接し、鋭い切岸と箱掘、小馬出(戸張)があることから、天正4年(1576)、氷見に進出した上杉氏が打ち込んだ楔かと考えて狙った。

 

 

主郭1北切岸下

右が主郭切岸。

写真奥左に北尾根。

 

北尾根の付け根

堀と捉えれば箱掘となり、帯郭とも捉えられる。

奥、右回りに東尾根堀切まで帯郭として延びる(後掲)。

 

 

主郭壁

この鋭さは上杉氏による削り立てに思えた。

 

北尾根2から主郭

箱堀で隔絶。

 

 

まずは佐伯先生が馬出とする3のある北尾根へ

 

北尾根2

 

窪みがある

 

土橋で3へ接続

佐伯先生は、3は、この2へ接続する土橋を守る馬出と捉えている。

 

馬出(戸張)郭3

 

3前面は堀切が守る

内の堀を土橋で繋ぎ、前の堀は遮断で防ぐ。

 

堀底

 

左(西)は掘り下げが強固

 

東掘下げ

 

振り返る

 

 

ひと空間あって北限の堀切

北尾根は4本の堀切に途中馬出(戸張)を配し、厳重に警戒している。

 

 

東尾根

 

主郭1北切岸下の続き

箱掘りから帯郭へ。

 

東尾根の付け根

 

1から一本目堀切

 

二本目堀切

薬研

 

南掘り下げ

北は帯郭だが、南は斜面に掘下げている。

 

外から見る一本目堀切

薬研で遮断。

 

対岸に主郭1

主郭への出入口はわからない。堀込などの出入口造作はなされていないようだ。

 

東尾根から南尾根へのトラバースは、傾斜きつく、無理

 

主郭1(東から)

 

東の縁

薬研で遮断。

 

北から1

 

北の縁

箱掘りで隔絶。

ここを架橋か。

 

西から1

 

西の縁

西尾根は。堀切による遮断はされておらず、山麓との経路となる。

主郭への出入は、あるいはここを取り付いたか。

しかし、北から東への主郭切岸下帯郭に敵を誘導した方が、殲滅しやすいと思う。

 

南の縁

南尾根は3本の堀切で遮断し、城限に両竪堀を敷設している。

 

 

南尾根

 

1から一本目堀切

斜から

 

地山尾根があって

 

二本目堀切

やや斜から

笹が邪魔だが、薬研。

 

ひと地山尾根をおいて

 

三本目堀切

連続堀切、畝状竪堀といった敷設ではない。

やや斜から

底は薬研

底から城内側

強固な遮断、屹立の意思を示す。

 

三本目堀切外

ミニ両竪堀が敷設というか付設。

ミニ竪堀で土橋を造作したものか。

土橋があるということは接続していたの?

 

西

 

外から

土橋を城戸に、あの薬研を架橋接続したのだろうか。よくわからない。

 

 私が注目した特徴を列挙すると、 鋭い切岸、薬研堀による遮断、馬出(戸張)、箱掘の造作がある。 一方で主郭の出入口造作が無く、土塁の運用はない。

 在地勢力の城か、私が狙った外来勢力である上杉氏が打ち込んだ楔かの判断は下せない。 

しかし、物見や監視、連絡といった用途だけの城ではなく、強固に戦う意思を示す城と捉えている。

 

登り口

神代から西尾根を伝い、至ることができる。ただし、尾根取りつきは個人のお宅の際(敷地境)を通過するため、許可を得て立ち入らせていただいた。

 
 註

 (1)富山県埋蔵文化センター(2006)『富山県中世城館遺跡総合調査報告書』

 (2)佐伯哲也(2013)『越中中世城郭図面集Ⅲ』、桂書房、p.46