清水山城(糸魚川市野口字竹ノ越) | えいきの修学旅行(令和編)

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聞き取りでは、しょうず山という。

この城は、そんなとこに…って、畏怖を覚えるほどの越後の秘境にある。

1人で踏み込む勇気は無くて、頸城の友達をたぶらかして行ってきた。

 どういう位置かというと、越後の西端(越中との境)糸魚川の姫川上流、信濃との境にあたる。

 越後と信濃安曇野とを結ぶ、いわゆる塩の道の越後境を固める位置にある城が根知城とこの清水山城である。

  塩の道は、現在の国道148あるいは大糸線の小滝ー平岩間は姫川沿いのトンネルで通っているが、近代以前は姫川渓谷は険難なため通行することはできず、根知谷から大網峠あるいは鳥越峠を越えて信濃に至る東回りと、小滝から大峰峠を越え山之坊から信濃大網あるいは葛葉峠に至る西回りの2ルートがあった。東回りが主要道で、定納員数目録上杉番城でもある根知城がその越後側に位置し、武田の越後侵入を阻んでいた。私は史料で確認できないのだが、信濃から越後に移った村上義清が在城したということになっている。根知城には、御館の乱(天正6年)後から武田滅亡(同10年)までの甲越同盟締結期間には、武田方仁科信盛の管轄下に属し、武田兵が入った。

 清水山城は、史料にはない。しかし、西回りルートの越後口を固める位置にあり、日本城郭大系7(1)では、戦国時代に信濃へ通じる越後口の備えとして築かれたものであろうとし、中腹の大堀切(深さ3m、上面積12m、長さ210m)は見事で、この東下に畝型阻塞九条があると記している。

 

 さらさら越えとして知られる天正12年の佐々成政が浜松の徳川家康との連携を模索した面会行程は、冬の立山を越えた猛将成政ならではの超人行為として一般的には知られている。

 しかし、冬季の立山を越えるなど、山を熟知した猟師なら可能かもしれないが、尾張出身の佐々が成せるとは私には思えない。

 鈴木景二は、佐々と村上義清の次男義長との交信から、成政の信濃入国を義長が手引きし、山口まで護送、帰還まで越年待機したことを明らかにし、成政の信濃入国は糸魚川ルートと推定している(2)。

 

 私は、佐々の信濃入国は、以前は安房峠越えのルートと考えていたが、今は、この糸魚川ルート推しである。

 塩の道東回りの、根知谷から大網峠へと山へ入るところを山口といい、義長が佐々を護送し、越年待機したのは、そこかもしれない。しかし、上杉の拠点城郭である根知城下を隠密裏に通行することはできたであろうか。そのてん、西回りルートは、主要道ではなく、姫川を渡河せず、山中の虫川、小滝を通ることにより秘匿できる可能性が高い。虫川、小滝には関所があり、また大峰峠の小滝側下には上屋敷・下屋敷という地名もあり、山口を山の入口とすれば、義長が佐々を護送し、越年待機した山口は、虫川、小滝であるかもしれない。この時点では、越中境要害は佐々が掌握しており、境から上路を経由すれば、勝山の監視も効かず、塩の道の西回りルートは、佐々勢力圏に最も近く、上杉勢力圏の端をかすめるようなルートということになる。糸魚川市史(3)2,p.107には寛政7年(1795)年小滝村の絵図に、さらさら越え、という名が書き込まれていると記している。

 

 当時、佐々が敵対する上杉領国を通って信濃ー遠江浜松へと移動したとは考えられず、鬼神すらいたしかねるような冬の立山を越えたと、世上では云われたのではないだろうか。

 

 

北から

清水山と明星山の間は小滝川の渓谷で、そこはヒスイ峡。

小滝川ヒスイ峡|新潟の観光スポット|【公式】新潟県のおすすめ観光・旅行情報!にいがた観光ナビ (niigata-kankou.or.jp)

南から

白丸で囲ったあたりに大系が見事と記す中腹の大堀切がある。

高浪の池の山開きに合わせて(車道通行止め解除)、繰り出した。

 

大系が深さ3m、上面積12m、長さ210mとする大堀切

私の心は、城郭構造ではないと評した。

 なぜかというと、大堀切の左側(西)に平場があるが、大堀切の右(東)は土塁状ではあるものの、その東は急斜面で、とても東から敵が攻め寄せてくるとは思えないからである。つまり、大堀切側から(平場に向かって敵は攻めてこず)、平場を守る必要がない。9条の畝型阻塞があるとされるのも、その急斜面なのだが、敵兵が展開したり、回り込もうとするなど、とてもできない。

 ただし、その急斜面は、小滝と大峰峠を結ぶルートに面しており、街道通行者に、畝型阻塞を見せることにより、ここに城があることを示威する効果はあったとは思う。

※私がたぶらかして連れて行った二人は、この大堀切は城郭構造だと見解している。

 

堀底

右は土塁状で、その右は畝型阻塞があるとされる急斜面。

 

楽しい💗

 

土塁状の天端

 

天端東の急斜面

9条も畝型阻塞が在んのかよ、って思いと、要んのかよ、って思い

 

畝型阻塞を確認しようと試みる

猿毛で苦難の末に畝状竪堀に遭遇できた時の感動が忘れられない…。

 

これか?

これだっていうものには出会えなかった。

 しかし、この斜面と土塁状天端は、小滝と大峰峠を繋ぐ現車道に向かっていて、在ったとすれば、通行者(信濃から攻め入った軍勢)への示威にはなる。

 

小滝と大峰峠を繋ぐ現車道

 

 

土塁状天端から大堀切

右が平場。

大堀切で守る必要がない。

 

 

平場

 

炭焼きの跡

 

街道監視、守備兵が駐屯することはできる

 

平場の奥に二股竪堀のような地形

 

二股収斂

人の手による構造物か確かめたかったが、叶わず

(ちょっと潜って進んだが、無理)

 

清水山頂へ向かう山道

 

登山道であることを確認してこの日は往かず

 山頂は、登山家のネット記事を拝見する限り、城郭構造を普請できる地形ではなく、また調査を許す地形でも樹々の状況でもないため、この日は挑まなかった。

 友達を再度たぶらかして再アタックを企画したが、天候が許さないまま、夏となってしまった。

痛恨…

 

 

山頂への分岐先には、野口集落に至るのだろうか、山道がつづく

そのへんも含めて、降雪初めにまた友達をたぶらかそうと思っている。

 

小滝と大峰峠を繋ぐ車道から

囲ったあたりが畝型阻塞があるとされる斜面。

城があるぞという示威にはなる

佐々が見たか。

 

登り口

A付近から山道あり

一旦沢に降り、道痕跡を見極めながら登る。

鉄塔に至り、鉄塔伝いに登り、B鉄塔から北へ山入り、城域へ至る。

 

A

 

鉄塔伝い

 

B鉄塔から北へ山入り

Aから29分。

5分ほどで大堀切に遭遇できる。

 

 

(1)村田修三等編(1980)『日本城郭大系』第7巻、新人物往来社、p.193

(2)鈴木景二(2013)「佐々成政の浜松往復前後の政治過程-村上義長関係文書から-」、『富山大学人文学部紀要』、第五八号

(3)糸魚川市史2,pp.106-7

 

 

おまけに周辺写真

 

小滝側から大峰峠への車道

右は高浪の池に至る車道。

 

大峰峠

小屋は大峰大地蔵尊を守る。

 

信濃側から大峰峠への登り

けっこうビビるなにかが漂う。

 

根知城

 

塩の道資料館

根知谷の奥、大網峠の登り口にあたる山口に在る。

多田様のご高配に感謝いたします。