小木城は、修士論文に掲載するのが先と考えていたのですが、昨年9月にCOVID-19のため受講を見送った歴史文化特殊研究3というスクーリング受講が、どうも今年も昨年以上に上洛が困難な情勢になってきて、今年度の卒業が怪しくなってきたので、昨年来温めていましたが、温度の冷めないうちに先にブログ公開することにしました。
小木城は、余湖さんが遠景写真と略記のみ公開しているものの、構造遺構はネット初出のようです。
天正17年(1589)、佐渡は、越後上杉景勝の征討を受け、景勝に抗戦した河原田、羽茂の本間氏は滅亡、与した沢根と潟上の本間氏は、越後に移された。
文禄3年(1594)の定納員数目録には、上杉番城として小木城、沢根城、羽茂城の3城が記され、城将として、小木には佐渡一国を率いる青柳隼人(信濃国衆)、羽茂に黒金安芸守、沢根に須賀修理亮が任命されている。佐渡一国の検地惣奉行河村彦左衛門も上田衆直江兼続配下であり、佐渡一国の支配権は、景勝家臣団によって掌握、統治された(1)。
定納員数目録佐渡番城・在番衆表示
沢根在番衆 |
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人名 |
石高 |
軍役 |
格 |
須賀修理亮 |
1173.4473 |
67 |
城将 |
登坂新兵衛(上田衆) |
244.62 |
16.5 |
同心 |
計 |
1418.0673 |
83.5 |
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羽茂在番衆 |
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人名 |
石高 |
軍役 |
格 |
黒金安芸守 |
1201.257 |
※ |
城将 |
石原兵部 |
55.43 |
3 |
同心 |
石原市兵衛 |
55.43 |
3 |
同心 |
潟上半兵衛 |
43.59 |
3 |
同心 |
唐国甚五左衛門 |
43.59 |
3 |
同心 |
計 |
1399.297 |
12※ |
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※羽茂黒金軍役は記載がない。
天正17年の景勝進攻前は、小木は国衆の本拠ではなく、戦国期に羽茂地頭の配下にあった村殿の城とされている(2)。
沢根は国衆である沢根本間氏、羽茂は羽茂本間氏の居城として、領有する周辺地域一帯の統治拠点であった。
佐渡修学旅行を行うことで、天正17年以降の上杉氏の城郭使用実態、普請能力を考えるうえでの重要な指標となるのではないかと狙った。
えいきの佐渡修学旅行関連地図
定納員数目録に記されているのは、小木、羽茂、沢根の3城。
新穂地区の3か所は村殿の城遺構が良好に残る青木、北方、新穂の三城。
ポイントしていないが、鶴子、新穂の両銀山周辺にも沢根元城、北方山城があり、銀山周辺遺跡共々修学した。 他にも雑太、赤泊、他の城も実見した。
中世小木城は左の白丸囲い。
城山公園として整備されている小木城山は、中世遺物は出土せず、近世初頭の瓦や陶磁器片が出土することから、小木港の湊役屋とみられている。小木港が元小木から現地に移った慶長19年に港代官原土佐が役屋をおいたものとされている(3)。
小木城は、在番城将青柳の知行高348.4石、他同心3名、兵員数33.4人、村殿の城という情報から、他2城と比して、規模と景勝期の普請は期待していなかった。
ところが、実見したところ、事前に抱いていた思い込みが覆された。
小木城は、まさに軍事機能を有した天正期上杉番城の姿である。
どういうところがって、
それは本編で。
註
(1) 藤木久志(1984)「家臣団の編成」、阿部洋輔編『上杉氏の研究』、吉川弘文館、p.381
(2) 新潟県教育委員会(1987)「新潟県中世城館跡調査報告書」、『中部地方の中世城館1新潟・福井』、東洋書林、p.278
(3)前掲註2同書,p.279