後編は城内を辿ります。
主郭1南西隅Aから踏み込む
主郭西面もまた回り込み不可
突入
佐伯先生が比較的容易としている箇所で、あるいは土塁土橋のような導線であったかもしれない。
堀込造作はないが、一段低く迎える
天正4年段階での上杉普請では、枡形様に掘り込んだ出入口造作は稀で、応急補修となれば、妥当な所とも思える。
主郭南部
飛騨方面南尾根、切岸下9(前編参照)を俯瞰、頭上監視
主郭中央部
削平、というより自然地形。
主郭北部
北東と北西に尾根がでる。
北面中ほどに堀込様の造作?あり。
東尾根
佐伯先生は、この先で北東に派生する尾根に堀切③をとっているが
進み、確認することはできなかった
堀込様の造作
北面端の通路状低段と接続する出入口造作かと思ったが、佐伯先生は、虎口造作とは捉えていない。
通路状低段から
北面は寄りつけず
北西尾根
この尾根筋には、郭造作がある。
下方に郭2。
接続に特別な造作は見られない。
2
北に土塁を盛るようにも見える
塁線上
塁線下方
壁下に堀ウ、西に畝状竪堀エを設け、守りが固い。
この壁・堀部分は、佐伯先生は「地崩れによって旧状が変化しているがかつては堀切が二本存在していたと考えられ」としている。堀ウと畝状竪堀二条という構造ではなく、二重堀切の痕跡と捉えているようだ。
堀ウ
畝状竪堀エ(2条)
私は竪堀の角度から、ウとエを別個の構造と捉えた。
郭3
北西から北面に塁線土塁を備える。
塁線下方に郭4
この塁線は、近代戦においても防御陣地と成り得るのではないか。
3-4は塁線西脇から接続あり。
接続導線
一段を経て4へ接続。
4
主郭に比し、削平が完成している。
北派生尾根
佐伯先生は5段とっている。
北西尾根方向
段々付随。
二段目
切岸下に郭がまだ続く
ここも左わき(西)下に一段置いて接続。
郭5へ至る導線
郭5
郭6
半円形の土塁を備える。
塁線壁下に堀オ、郭7
堀オ
郭7
左にカーブし、郭8。
郭8
ここも、北に土塁を備える。
塁線土塁
まとめ
栂尾城は、郭の削平が4の他は不完全で、在地勢力の居城や詰の要害ではなく、臨時に取り立てられた城郭のように思えた。 しかし、削り立てた切岸壁、畝状竪堀による防御は完成しており、要害度は高い。前編で辿った飛騨方面の南尾根は、郭の配置が無く、遮断を意図して、切岸壁、堀切を付加したのだろう。市場集落と繋がるルートには、竪堀、喰い違い、応急的な戸張、高所監視の普請をもって侵入者に対する備えを講じている。
これらは天正4年段階の上杉勢によって、飛州口防御の城として補修・強化された構造と捉えることもできよう。落城後数日で防御工事完成とするには、大規模普請ではなく、修理と応急・緊急的防御強化が優先されたであろう。折れ歪み、出入口造作・防御、郭の接続が拙いのも、私は同様に受け取ることができる。
一方、飛騨三木氏の城郭にも畝状施設は多用される。土塁に関しては、天正4年段階の上杉氏は、この城の構造程度の造作はできようが、その運用には長けていない。、土塁、畝状竪堀は、上杉接収以前、あるいは以後に、他の主体によって普請された構造かもしれない。
参考文献 佐伯哲也(2011)『越中中世城郭図面集Ⅰ』、桂書房、pp-36-7
おまけ
猿倉城
栂尾城と猿倉城
猿倉城
山上は、風の城公園となっている。
風の城
神通川上流飛騨方面
直下、神通川とJR高山本線、越中東街道を扼す
神通川下流方面
斎藤氏領域。
富山湾の向こうに能登が見える。
越中平野
栂尾城の後方は越後方面