栂尾城前編(富山市大沢野町舟新) | えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行を綴ったブログです(ヤフーブログから移設しました)。

栂尾城

西麓市場集落側から

西麓を飛騨街道が通り、飛騨街道を意識した城である。

 

 天正4年9月8日 栗林次郎左衛門尉宛 上杉謙信書状(上越市史別編1307)

 

 「(前略)、栂尾・増山落居、飛州口ニ地利二ヶ所取立、仕置堅固ニ成之、明日西表江進馬候、湯山も今明之内ニ落居候間、可心安候、万吉重而金言、」

 

 天正4年9月8日、謙信は、越中栂尾城と増山城を落とし、飛騨口に二城を取立てて仕置き堅固にし、西へ馬を進めようとしている。越中能登の境(氷見市)に位置する湯山城の落城も目前であり、今まさに謙信が、能登へ侵攻せんとする直前の書状である。

 

 佐伯哲也(2011)『越中中世城郭図面集Ⅰ』、桂書房p.36によると、能登へ進攻する上杉謙信が、背後の飛騨口を固めるための取り立てた地利二ヶ所を、特定できないが、猿倉城・栂尾城のことだろうかと推定している。

 佐伯先生の推定どおり、謙信が取り立てた地利の一つが栂尾であれば、天正4年段階での上杉氏の築城(落とした城なので修築・改修)技術を伺うことができるのではないか、というのが私の関心。 

 

 なお、富山県映像センター No.5-038栂尾城-とやまの城(2021.6.16閲覧 )によると、「元亀2年(1751)飛騨の武将塩屋筑前守秋貞が越中に出兵し、猿倉城と築城。」とある。

 

  私が登った南からの登路と、帰路とした市場集落へ繋がる大手ルートを前編で、主郭以北の城内の様相を後編で辿る二部構成とします。

 城の様子はネット初出のようなので、久しぶりにこってりと書きました。前編は修行行程の記事ですがご容赦ください。

 

 

南麓には21世紀のなんか。

太陽光施設だろうか。

 

そのために削られた南崖から狙うのが最短距離

だが、しんどい。

ピラミッドをよじ登るよう。

 

途中、愛馬を俯瞰

 

登ったっがいいが、木々の洗礼

 

帰ろうかと、心が折れそうになった

 

緑条網を潜り抜けて尾根筋にでる(下馬から22分)

なんとか辿り着けそうだ。

 

堀切が出現

さっきまでの弱気が消え失せる。

 

堀ア(下馬から24分)

私の感性では、これは遮断意図を持った上杉の堀。

 

あれに城か(じつはまだ)

 

城側からア

 

 

二枚上写真のピーク

郭としての造作はない。

 

城側尾根筋

 

緩い堀?があって堀イ

 

堀イ

鋭い薬研で左右(西東)掘下げ、遮断意志が強い。

 

イ底

 

西掘下げ

 

東掘下げ

 

城内側からイ

土橋、架橋等の痕跡はなく、明確な遮断を意図した構造である。

 

城内側

さらに切岸が壁となり遮る。

 

切岸による壁造作

 

壁途中から見下ろす

強固である。

 

壁上は主郭壁下9

9は壁上主郭からの強固な監視を受け、熾烈な頭上迎撃を受ける。

右(東)は切岸鋭く回り込み不可。

左(西)に監視下移動可。大手筋となる市場集落からのルートが入る。

 

 佐伯先生の見立て通り、飛騨方面である城の南には、郭の造作は無く、堀切、切岸による遮断を意図した構造によって普請されている。

 

主郭壁南面

鋭く削り立てている。

 

東は回り込み不可。

 

9西

下方から市場集落からのルートが入る。

 

佐伯先生は主郭への接続箇所を「比較的容易に登ることができる」南西隅を推定している

 2枚上の写真のように、東回り込みは主郭へ到達できず、堀切を越えてきた敵は、主郭からの横矢にさらされながら、ここから入るしかないとしている。

 

 

大手ルート:中世飛騨街道が通る市場集落へ

 

西尾根

大手ルートを迎える10。

 

10

267.3の三角点がある。

 

西に降り、堀とするには遮断意図が不明瞭な箇所

杖、失礼。

 

ルート状の尾根

 

11とした平場

この先、壁脇を降り、竪堀造作あり。

 

突端は壁で、右(東)脇を下る

 

竪堀造作

カ。

 

振り返り、壁を見上げる

 

 

壁上から竪堀で狭めた導線を俯瞰

 

この先にB関門造作

 

B関門

喰い違いを造作し、先には竪堀も備える。

 

高所の右を通過

 

高所先、左折れ

 

竪堀クで狭め、喰い違いを造作し、右折れ

 

城外からB関門

喰い違い、竪堀造作が明瞭。

 

竪堀ク

敵にとってはエグイ。

 

 

大手ルート

 

12高所下

12高所には溝、堀クの造作がある。

左(西)に市場集落へ至るルート。

 

 

12

高所自体には造作なない。

 

堀ク

 

ルートへ戻った

この先に郭13とC。

 

郭13

下方に切岸へ巡らせ、大手の構えとしている。

 

郭13切岸通過出入口

切岸したをCとした。

 

切岸下のC

私には、不定形ながら桝形造作に観えた。

郭13出入口前の戸張機能を有するのではないか。

 

これがCの出入口だが、左は土塁で囲う造作に見えた

 

13から俯瞰

不定形な桝形にみえる。

切岸上13から監視、射撃可能。

 

C出入口外から

 

ルートを降る

 

無事人里に脱出できた

主郭から36分。

 

 

 大手ルートは、遮断はせず、竪堀、喰い違い、応急的な戸張、高所監視の普請をもって、侵入者に対する備えを講じている。

 

 参考文献 

 佐伯哲也(2011)『越中中世城郭図面集Ⅰ』、桂書房pp.36-7